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横浜市立大学探検部員及び元探検部員がライフワークとして取り組んでいる、研究、自然観察、登山等についてのページです。

探検の精神朝比奈 大作(元探検部顧問)  


■探検の精神(朝比奈 大作)

 私は子どもの頃から、いわゆる「探検」というものにあこがれていた。小学校時代にはアムンゼン、スコット、リビングストンなどといった探検家の伝記に読みふけっては、見知らぬ極地や砂漠や熱帯のジャングルに思いをはせていた。やや長じてからは、ダーウィンの『ヴィーグル号航海記』やヘディンの『中央アジア探検記』などを繰り返し読んだ。
 それは多分、親の仕事の都合で引っ越しを繰り返したせいで、いわゆる「ふるさと」意識を持ち得なかったという理由もあるだろう。私にとって引っ越しや転校は「別れの辛さ」よりはむしろ新しい士地や新しい友人との「出会いへの期待」として、それなりの心躍る体験であった。昆虫や植物が好きだったので、中学・高校では生物部に入った。高校一年の夏休みに、採集会と称して南アルプスの三千メートル峰をいくつか踏破したことが私の探検趣味・登山志向を決定的なものにした。

 大学に入って、いわゆる五月病になりかかっていた私は、連休直前のある日、サークルの掲示板に「学術調査探検部」の新人募集のビラを見つけた。二年前に発足したばかりの、 ほかに例のない大学院生が中心のサークルであった。二年の留年を加えて六年間の私の大学生活は、以後この学術調査探検部とともにあったと言ってよい。
 その年の五月の連休から翌年の四月までの一年間のうち、私は百日を超える日数を「山の中」で過ごした。夏休みには北海道の日高中で営林署のアルバイトをし、そこで初めての「遭難事件」に遭遇した。沢の流れに足を取られた北大山岳部の女学生と、それを助けようとしたリーダーとが流されて行方不明となったのである。私たちの詰めていた飯場のすぐ近くでの出来事であったので、捜索と遺体の収容とに協力することになったのだが、「死」というものを間近で見たのは初めてであったせいか、三日後に発見された女学生の遺体は、私にある種の神々しさを感じさせさえした。

 その二年後に、谷川岳でロッククライミングをしていた親しい友人が二人、ザイルを結びあったまま転落死した。ヒマラヤ(正確にはヒンドゥークシ山脈)へ行こうやと夢を語り合っていた仲間であっただけにショックは大きかった。両人の家族ともそれなりの面識があったから、残された者の悼み、悲しみも身近に感ぜられ、「山仲間」としては、「お前達とつきあわなければこんなことにはならなかったのに」と言われているような辛い思いもした。何よりも岩場で数百メートルを転落した二人の遺体は、いわゆる粉砕骨折というやつで無惨としか言いようがなかったが、検死官が傷口からガーゼを詰め込むと、グニャグニャだった頭部が「元のように」なったのはもっとショッキングだった。それまでは「モノ」でしかなかった遺体が、突然になれ親しんだ「人」の顔になったからである。「山で死ぬのはみっともないから嫌だ」と言っていたその友人の言葉が頭の中でこだましていた。

 それでも私は山へ行くのをやめなかった。登山そのものにそれほどの思いがあったわけではない。私はいわゆるピークハンターではないし、生き物(虫)のいない雪山や、虫採りの余裕のないロッククライミングには、それ自体としてはむしろ興味はなかったと言ってもよい。死んだ友人に義理立てするというような気持ちがあったわけでももちろんない。父親はこういうことにもともと興味があったのであろう、山へ行くことに取り立てて何も言わなかったが、母親はやはりずいぶんと心配をしていたようである。危ないことはするなと言われるたびに、東京での交通事故の方がよほど危ないと言い返したりしていた。屁理屈ではあるのだが、当時の私は本当にそう思っていた。人はいつかは死ぬのだ。どうせ死ぬのなら、自分で責任のとれる死に方をしたい、交通事故の巻き添えになるような「自分に原因のない」死に方はしたくないと、私は今でも本当にそう思っている。

 だから私は昨今の安全至上主義、生命至上主義が気に入らない。子どもに危険を冒させないようにすることが教育だなどという保護主義的な風潮が気に入らない。絶対安全などという人生はあり得ないのである 子どもたちから冒険と好奇心とを奪ってしまったら、ほとんど成長はあり得ないとさえ言える。死んでしまっては元も子もないけれど、それでも子どもにはそれなりの危険に遭遇するチャンスと、その危険を乗り越えようとする勇気とは持たせておかなければならないはずである。何よりも気に入らないのは、絶対安全という思想が、自分たちが未来を確実に予想できるのだという一種の「思い上がり」に支えられているということである。

 近代科学は、ある一定の確率である程度の未来を予測することを可能にした。日蝕や月蝕は確実に「予言」できるし、台風の進路予想も可能である。地震の予知もできるようになるかも知れない。しかし、こと「生命」にかかわる諸々のことどもについては、それが個人の人生であれ、あるいは個人の集合体としての人間社会のあり方であれ、統計的・確率的な言い方を超えて確実に末来を見通すことなど、いかなる者にもできるはずがない。自分がどんな死に方をするのかを選ぶことはできないのである。
 そのことを現代人は忘れてしまっている。自分の人生は予測可能であり、計算通り、計画通りにいくはずだと信じたいと思っている。いつか必ずやってくる死というものを忘れていたいと願っているのである。しかし、死を忘れた生がいかに空虚なものであるか、私たちはもう一度考え直してみるべきではなかろうか。

 この夏、横浜市大探検部の連中がボリビアヘ出かけ、アマゾン支流のカヌーによる川下りに挑戦した。計画は成功し、各種のメディアにも取り上げられ、大いに市大の名を高からしめたという理由で、本年度の「学長賞」を受賞することになった。市大探検部顧問としての私もいささか鼻が高いのであるが、実は私にはいささかの鼻白む思いが残るのである。
 それというのも今から十年ほど前、市大探検部(と山岳部の合同隊)は中国の天山で遭難事故を起こし、雪崩のために三名の隊員(OB二名を含む)を死なせているのである。そしてその時、生き残った隊員を含む関係者はマスコミを始めとする多くの非難にさらされることになった。現役の学生にそのような危険な行為をさせたのには、大学当局の責任もあるのではないかというような論調が少なからず見られもしたし、学内からもそれに類する非難がましい声が聞こえもした。

 結果がすべての世界であれば、そのような非難そのものは甘んじて受けなければなるまい。私はそのような非難に対して言い訳をしようとは思っていない。今回の探検行が学長賞に値しないと思っているのでももちろんない。そうではなく、失敗(遭難)すれば囂々の非難を浴びせ、成功した者は無条件に褒め称えるという態度は、いかにも思い上がった「探検」の精神とは対極にある態度ではないかと言いたいのである。絶対に安全で、最初から成功が約束されているような「探検」が称賛に値するはずはない。不確実性が高く、危険の大きい行為こそが、成功の暁には称賛を浴びるにふさわしいはずである。とするならば、思いがけない出来事に遭遇して失敗に終わった行為の方が、より「探検」の名にふさわしい行為であったと言うことも可能であろう。
 失敗(遭難)は非難さるべきである 徹底的にその原因を追及し、二度と同じ過ちはしないようにと心がけるべきである。しかし、それを「非難」することと、これを「否定」することとの間には圧倒的な懸隔があるのである 前回の遭難事故に対して、そのような行為を否定するかのような発言をした、その同じ人物が今回の行為を称賛するのは不思議なことだと、そしてその人物がその不思議さにまったく無自覚であるということがなおさら不思議なことだと、私はそう思って鼻白む思いでいるのである。

 繰り返しになるが、人は人である限り、明日の自分の姿を「見る」ことができない。確実な未来を「知る」ためには人は神にならなければならないのである。自分の未来が見えないと嘆いてはいけない。それが人のあるべき姿なのである。見えない未来を見通したいと無益な努力を重ねればこそ、人はオウムやライフスペースなどといった、端から見ればアホらしい「教祖様」に入れあげたりするのである。そうではなく、自分の未来は見えないのだということをしっかりと認識し、そうであればこそ、むしろ見えない未来に自分の欲望を重ね合わせ、思いがけない出来事との遭遇をむしろ喜ばしく感じるような「意気込み」を持っていたい、失敗を避けようがために何かを「しない」のではなく、成功を求めればこそ失敗の可能性のある行為に挑戦したい、私は本当にそう思っている。
 人は死に方を選べない。どんな死に方をするかはわからない。わからないからこそ、私は自分の責任であるような死に方をしたい。そしてそう思うが故に、自分に何の責任もないままの死を迎えさせられた通り魔殺人事件や鉄道事故・飛行機事故・薬害などの被害者の立場にはなりたくないと思い、そうした被害者の無念を想像し、その犯人や当局者に対する腹の底からの怒りを感ずるのである。

 今回はなんだか少々堅い話になってしまった。もし自分の死に方を選べるとするならば、探検途中の遭難死を望みたいのではあるけれど、他人に迷惑という意味で、それはあまり望まれない死に方なのであろう。であるならば、いわゆる過労死というやつもそれなりに望ましいのだが、これはどうも私には不可能であるように思われる。さし当たってはタバコの吸いすぎによる肺ガンか、美食の果ての糖尿病といったあたりが考えられる最良の死に方ではなかろうかと思っている。
                                              (2000年記)
『EXPEDITION Ⅳ-1989~1998-』(2000年11月)より転載


■伊東君に捧げる(朝比奈 大作)

 山を愛する者にとって、同じように山を愛した仲間が、その愛した山に命を奪われてしまうという報せを聞かなければならないことほど辛いことはない。それは例えば君と僕がどれほど近しい間柄であったかということとはほとんど関わりがなく、僕と同じように山を愛した男が山で死んだ、という痛惜の思いである。君は今、愛した山の懐に抱かれて安らかに眠っていることだろうと思うのだけれど、これだけは言っておきたい。どうか山を恨まないで欲しい。僕たちが山を愛するように山は僕たちを愛してくれはしない。だから君の愛した山が君を裏切ったのだとは考えないで欲しい。山は、自然は、決して人間を裏切らない。山が君を、君たちを裏切ったのではなく、結局の所は君たちが山を裏切ったことになるのだ。醜いことを言うようだが、君は君自身の死によって山を裏切り、同じように山を愛する君達を裏切り、そして君を愛してくれていた多くの親しい人々をも裏切ってしまったのだ。

 だけど、そう言いながら、僕の心の裡には君に対して嫉妬とも言えるような気持ちが蟠っていることも事実である。君が山に命を奪われてしまったそのときの状況について、僕たちは想像を逞しくする以外のことはできない。恐らくは思いもよらないほどの規模の大雪崩が君達を襲ったのだと、そのように説明されている。けれども、言葉の厳密な意味で、その雪崩が君の〝思いもよらない〟ものであったとするならば、君は山を愛する資格がなかったことになってしまう。
 そうではなくて、君と君の仲間とは考え得る限りの安全策を取り、起こり得る危険に十分に思いをこめた上で、そのときの行動を選択したのだと思いたい。つまり君達は、雪崩に命を奪われる可能性があるということ、たとえどんなに小さな可能性であるとはいえ、そのような可能性がゼロでないことだけは知っていた筈なのだ。僕が嫉妬に似た思いを抱いてしまうのは、そういう意味で君達が真の冒険者であったという証をつきつけられてしまったからなのだ。

 山での遭難事故のうち、雪崩と雷だけは避けようがないと言われる。だけどそれは一連の言い訳で、少なくとも雪崩は確実に避けることができる。雪崩のおこるかも知れない地へは近づかないようにすれば良いのだ。つまり山へ登るのをやめれば良いのだ。こんなに簡単なことはない。それなのに君は山を愛してしまった。避けられない雪崩が起きるかも知れない地へ足を踏み入れてしまった。
 もちろん、雪と氷の山に挑むのは雪崩に遭いに行くのではない。死のうと思って山へ行く奴はいないはずだ。事故を防ぐためのあらゆる手段を講じ、考えられる限りの手を打って、それでもなおかつ避けられない事故が起きるかも知れない。そう意識した上で、それでも俺は山を愛し、山に登るのだと思いつめた時、多分君は死に向かって決定的な一歩を踏み出してしまったのだろう。僕はそのことを羨ましいとさえ思ってしまう。

 僕には三人の男の子がいる。彼らが山を愛する人になってほしいとは思っていないが、少なくとも僕は、彼らが何かをしたいと言い出したときに、危ないからやめろ、という言い方だけはしたくないと思っている。危ないから気を付けろよ、とは言うだろうが、そして、たとえば山へ行くのならば、どんな危険があるのかを知っている限りは具体的に指摘してやることはできるだろうが、だからやめろ、とは言わないつもりだ。生きているものは必ず死ぬのだから、死なないためにしたいことをしないという生き方は人間らしいとは思えないからだ。

 考えてみれば奇妙なことだが、君は山へ行くために随分とトレーニングに励んだ筈だ。世の中には自分の健康のために、長生きするためにと称して、これみよがしにジョギングに励んだりする人が沢山いるのに、山で死んだ仲間達は皆、結果的には早死にするためにトレーニングに励んでいたことになってしまう。
 その時にはそうは思わないのだけれど、今になって思いかえしてみると、もしかしたら死ぬかも知れない、という思いを胸の奥に秘めてトレーニングに励んでいたであろう君の姿がとても尊い姿に思われてくる。死ということを、ほんの少しでも心のどこかに意識した時、人はすべての傲慢さを捨てることができるのだから。君が本当に謙虚な気持ちで山に対峙したことを僕は疑わない。

 たった一つだけ、君に対して不満がある。君を心の底から愛してくれていた優しい人々に対して、君が自分の山に対する愛を、もしかしたら死ぬかもしれないが、それでも行きたいという情熱を、その同じ謙虚さで伝えることを怠ってしまったことだ。
 だから君は、それらの人々を裏切り、悲しませてしまった責任を負わねばならない。
 僕にはそのことだけが心残りでならない。

『昌彦がゆく-伊東昌彦追悼集-』(1992)より転載


■ヒマラヤへの憧憬(朝比奈 大作)

 探検部のヒマラヤ探検隊が、アイランド・ピーク登頂という朗報と共に、私への素晴らしいお土産をもってきてくれた。総計で50頭ほどの昆虫標本のことである。中間報告書によると、ピークハントのみを目的とする遠征隊は〝探検〟部としては安易に過ぎる、との意見があって、民族学、生物学の調査を目的に加えた、とある。他の主題については別にして、昆虫層の標本については、私が急遽、道具一式と採集メモを用意して送り出したのだから、全くの素人集団であって、正直なところほんのつけ足しの何か二、三の標本でも採ってきてくれればとごく淡い期待を抱いていたにすぎなかった。
 それなのに、乾期の高地遠征であまり虫の姿を見かけなったので、と言いながら、小さいハチ、アリ、ハエ類等を含めて(というよりもむしろ、そうした小昆虫を主に、といったほうがいいのだが)50余もの標本を持ち帰ってきてくれたのが私には大変嬉しかった。

 もちろんこれだけの小さなコレクションが学術的な意味を持つ可能性は少ない。ヒマラヤの昆虫相はそれなりに調査が進んでいるのだし、数種の蝶と甲虫類を除けば、そもそも私自身に同定能力がなく、レポートすら書けないからである。専門家に同定を依頼するだけの価値もないだろうと判断して、有難く私のコレクションに含めさせてもらうことにしたわけである。
 隊員に手渡した採集メモに、〝私は虫を選ばないので、何でも採ってこい〟と書いておいてのがちょっとした評判になったそうだが、そういう意味で私は専門家ではなく、従ってまた私のコレクション自体が学会に貢献できる可能性に乏しいのだけれど、それは私個人にとっては大きな意味を持っている。私は標本を買うことはしないので、私のコレクションの四分の三ほどは自分の手で採ったもの、残りはこの場合のように、主として海外に出掛けた知人、友人に頼んで採ってきてもらったもの(卓上採集と称している)である。前者はもちろん、私の〝思い出〟を形成するコレクションであり、後者は未知の土地への〝夢〟を作り出してくれるコレクションである。

 今回貰うことのできた小さなコレクションは、他に例のない特殊な(小昆虫中心の)採集品であるということで、私の標本箱の中で輝き続けるだろうし、時間が経てば当然ある種の〝思い出〟を増幅させることにもなるだろう。しかしそのことと同時に、私が若い頃に抱いていたヒマラヤへの憧憬を鮮やかに思い起こさせてくれた、そういう意味のあるものとして、私は大切にしたいと思っている。学生時代に横浜港から貨物船で〝遠征〟に出掛けた友を一種の嫉妬と共に見送り、そしてその友人が持ちかえってくれた若干の標本を貰い受けたことがあり、それらと今回の標本が同じ箱の中に並んだときに、私はその時の憧憬と嫉妬とを鮮やかに思い出したのである。
 これら〝2かたまり〟の標本への私の思い入れが今後輝きを失うことはないだろう。海外旅行が当たり前になって、私もいつか憧れのヒマラヤの地をこの足で踏むことができるだろうが、その時までそれらは私の夢を育んでくれるだろうし、それから後は、(多分自分が採集した標本と一緒になって)多くの思い出を暖めてくれることになるだろう。

 感謝の念をこめて、一筆記しておく次第である。

『ネパール・ヒマラヤ探検報告書』(1989年12月)より転載




■大谷君のこと(朝比奈 大作)

 大谷直士君が亡くなったという。睡眠中の急死だとのことで、まだまだやり残したことが沢山あっただろうにと心が痛む。よく、〝山で死ぬ奴は馬鹿だ〟などと言うのだけれど、若い人にこんな死に方をされると、せめて好きな山で、或いは何かの探検活動中の事故ででも死ねた方が、本人にとっては心残りが少なかったのではないだろうか、などと思ってしまう。
 多くの現代人が「死」ということに思いを致すことを忘れてしまっているかのように見える時代にあって、登山とか探検とかを志している者は、いやでも時には「死」を見つめざるを得なくなる。若い頃に「死」について考えてみることは決して悪いことではない。
 そして「自然」に生身でぶつかっていけば、自然は何らかの形で「死」について語りかけてくれる。「死」は我々の上に突然落ちかかってくる厄災ではなく、生ける者すべての行きつく到達点なのだから、それを忘れ、それから逃げるのではなく、機会を捉えてこれと向き合うことが、特に青春のさ中にある若い人たちにとっては大事なことであろう。

 その意味で、改めて読ませてもらった大谷君の文章の端々から、多分本人がそれと意識していたであろうよりは遙かに強烈に、彼が「死」を意識し、これと向かいあっていたことが読み取れて、その分だけ何だか救われた気分を持つことができた。
 恐らくは、彼が探検部入部早々に目の当たりにした先輩の事故が、彼に「死」を意識させる大きなインパクトとなったことだろう。思えば私と大谷君とので出会いも、同時に私と横浜市立大学探検部との関わり合いも、あの鷹取山の転落事故から始まった。
 私はそれまで自分が〝探検部顧問〟であることを知らなかった(意識していなかった)のだが、事故の後始末(警察やら教授会やらの事故報告等)をせざるを得ない立場になって、以後、〝顧問〟の肩書を意識するようになってしまった。
 東大探検部を自ら解散させるのに関係した者として、別の組織とはいえ探検部顧問などという立場は内心忸怩たるものがないわけではないのだけれど、私を市大探検部に引っ張り込んだ張本人の一人が大谷君だったというわけである。

 初めて大谷君に会ったのは数日後に、私大病院に入院していた塚本君のお見舞いに行った時であったと思う。事故後時間が経っていたこともあり、塚本君の怪我が思ったより軽くて大事に至らないこともあったろう。
 先輩と二人でロッククライミングの練習中に、当のその先輩が目の前で転落して大怪我をするという大きなショックを受けたにしては落ち着いていて、ことらもホッとしたのを覚えている。いろいろと話を聞いてみると、本人はすっかり動転していたとは言うのだけれど、事後の処置も各方面への連絡も概ね適切で、むしろ冷静沈着と見られてのではないかと思う。
 私にも覚えがあるが、危急に際して動転してあわてふためくタイプと、頭が空白になってしまってむしろ落ち着いて(と周囲の者には見える)処置のできるタイプと2通りあって、大谷君は後者の方ではなかったかと思う。塚本君には気の毒な言い方だけど、大谷君には良い経験になっただろう。(こう書いてしまってから、大谷君にはもうその経験を生かすことはできないのだということに気がついた。返す返すも口惜しいことである。)

 従って大谷君とはその後ほとんど丸4年間、さまざまな形でつき合うことになった。特に3年の時には主将をつとめているので、学祭だの遠征の際だのにはよく研究室に訪ねてきてくれた。それなのに、私にとっての大谷君の印象が今一つ明瞭でない。比較的無口で、いつも微笑をたたえていて、ごく真面目な、ごく普通の青年という印象しか浮かんでこないのである。
 大谷君の前の主将であった熊澤君やその前の主将鈴木元章君が陽気で外交的なリーダーであったから、なおさら彼一人が黙々と行動し、自らの行動によって後輩を惹きつける、そういうタイプのリーダーに思えたのかもしれない。そういえばOB中心の「探査会」が中国遠征を計画した時にも、彼は一人黙々と、しかし着実に、自分なりの〝準備〟を進めていたように思える。口べたで損をしていた所もあるように思えるし、探検部としてはやや異質なキャラクターだったと思っていた。

 ところが、改めて彼の行動記録を知り、また幾つかの「事件」(さわぎ、といった方が良いのかも知れない)を起こしていることなどを聞いて、彼の人となりに私のこれまで抱いてきた印象とは随分と落差のある一面があることを思い知らされた。
 とにかく彼は酒を好んだようであり、全くの下戸である私とのつき合いには限界もあったであろう。多分(私の思っていた通りに)口べたで、社交的なことは苦手であった彼が、つい酒を過ごして鬱積していたものを爆発させる、というようなこともありそうなことだと想像される。繰り返すけれども普段の生活においては色々と誤解されたりして、損な役回りになることが多かったのではないだろうか。

 しかしながら、彼はそのことをさして気に留めていた様子もない。特に彼の書いた文章を読んでみると、彼がある意味極めて純粋なロマンチストであったことが看取される。うっかりするとアナクロニズムとさえ言われかねないほどに、現代の若者が失ってしまっている(ように見える)ロマンチシズムを、純粋に真正直に自分の行動規範にしてしまったことが、様々な形で周囲(特に〝探検〟などというロマンチシズムとは無縁の人々)との衝突を生じさせたのであろう。
 聊か露悪的な気取り、気負いのある点が誤解を呼んだこともあったであろう。しかし、周りからは若気の至り、とされたであろう彼の〝暴走〟も、彼自身の心の内では純粋な、ある目的へ向かっての一途な行動であったように思われる。
 それまで〝ほとんど単位を取っていない彼〟が、〝4年で卒業するぞ〟と(3年の時に)宣言し、その通りに留年もせずに卒業し、就職してからはまた一途に仕事に励んでいたことなどを伝え聞くと、彼の情熱が胸に迫ってくるように思う。どのエピソードを取り上げてみても、同じ一つの〝終点〟へと進まざるを得ない彼の欲動を感じてしまうのは、私の死んだ者に対する感傷だけではないと思う。

 何を言っても彼は彼なりの「終点」に到達してしまった。「死ぬ時は花火のように爆発して死にたい」と書き、「タンケンのケンは健康の健!」と自分の文章を締めくくった大谷君にとっては、自分の死に方には或いは悔いが残ったかも知れない。が、彼の文章から見る限り、彼が自分の生き様に悔いを残しているとは思えない。彼は「自分の好きなことを思い切り」「好き放題」やって、短い生を一途に力一杯生きた筈である。「終点」に到達してしまった者に対して、残された者にできることは、彼の生の軌跡を辿り、自分の生と死に重ね合わせて思いを改すことでしかない。
 さればこそ、特に探検部の諸君達には「後輩達には、思い切り活動して、伸び伸びした人生を送ってほしいと思う」という彼の言葉を、改めてかみしめて、それぞれの人生の標札としてほしい。
 残された者が限りある生をそれぞれの終点に向かって精一杯生きることが、若くして逝った者への最大の餞であるはずだから。
 合掌。
                                             1988年11月13日

『直士愛して-故大谷直士追悼文集-』(1988)より転載


■探検について(朝比奈 大作)

 市大探検部の30年記念文集だそうである。「どんなことでもいいですから…。」と言われて気軽に引き受けたのだけれど、いざとなると何を書いていいものやら困り果ててしまっている。私が〝探検〟なるものに夢中になっていたのはもう20年ほども前のことであって、その頃でさえ、もう少し早く生まれていたら、と思わずにはいられなかったのに、その後の〝探検〟をめぐる状況の変化は、そのような生ぬるい感慨を微塵に粉砕してしまうほど激しく急激なものであった。私は現在の学生諸君が、〝探検〟にどのようなイメージを抱いているのか、聊か量りかねているのである。
 20年前の私たちは、しばしば〝探検のアナクロニズム〟ついて議論をたたかわせた。エヴェレストの頂が極められ、地球上にterra incognita、人跡未踏の地と呼び得るものが殆ど失われてしまった現在、最早〝探検〟はナンセンスではないのか、それは商業主義という新しい形の植民地主義、帝国主義の先兵となるだけではないのか、そんなことが私たちの大問題であった。

 しかしまた、当時の我が国はいわゆる〝学術調査〟が花ざかりの時代でもあった。木原均の「砂漠と氷河の探検」は私たちのバイブルであったし(余談ながら、私は市大に赴任したおかげで木原博士にお目にかかることができたので、若い頃の〝夢〟の一つがかなえられたことに大いに満足している)、川喜田二郎、梅棹忠夫、中尾佐助といった〝京大探検派〟の面々は私たちのアイドルであった。学術調査隊に参加した若い研究者たちの華々しい活躍は、ダーウィンやウォーレスのイメージと重なって、若い時代の〝探検〟の経験が豊かに結実するという可能性に大きな意義と希望を与えてくれた。
 一方には本多勝一という、〝希望の星〟がいた。彼は新聞記者であって学生ではなかったけれども、少なくとも専門家としてではなく、〝素人〟として探検にでかけ、多くの成果を発表することができた。文字通りのterra incognitaは失われてはいても、熱い心と冷静な眼を持ってさえいれば、文化人類学や地理学、考古学や生物学、そんな様々な分野で、〝未知との遭遇〟のチャンスが半素人の若者たちにも残されているのだと、私たちは感ずることができた。
 もちろん、他にも多くの登山者たちがいた。堀江謙一から植村直己に至る(学術調査を目的としない)純粋探検家(冒険者)の系譜も輝いていた。何よりも1ドル360円、外貨持ち出し制限500ドルという時代のことである。〝外国〟は遠く、〝海外〟へ出掛けるというただそれだけのことが当時の学生にとっては難事業であった。確かにそれは、〝日本には知らされていない〟〝日本語の報告はない〟というようなものであったかも知れないけれど、探検記、旅行記の類いは出版社にもテレビ局にも〝売り込む〟事ができた。その先駆けとなったのは小田実の「何でも見てやろう」で、これは当時としては破格のベストセラーだった。
 もちろんアメリカやイギリスへの〝ジャルパック〟を初めとする観光ツアーもあったし、〝留学〟の可能性もあった。けれども、そうしたお仕着せの〝ブルジョワ的〟旅行ではつまらない、と思う者にとっては、当時の学生には大金であった渡航費をどうやって工面するか、そして〝探検隊〟や〝登山隊〟を組めばどう逆立ちしても足りない〝1人500ドル〟の持出枠をどうやって突破するか、それが大問題であった訳で、逆の見方をすれば、自由に自らの夢を実現しようとすればいやでも、〝大義名分〟を掲げた〝隊〟を組織するとか、出版社やジャーナリズムに手記を売り込むとか、何らかの形で〝未知〟を探し出し、〝ひとのやらないこと〟を思いとかなければならばかった、ということでもある。

 そして今、時代は大きく変わった。日本は経済大国となり、強い円のおかげで海外旅行は珍しくもなんともないものになってしまった。私はほんの少しだけれど、川喜田二郎のネパール人入国日本人のデータ収集・整理の手伝いをしたことがあり、向後元彦が近畿日本ツーリストに拠って日本人の手による海外旅行の記録を目録化しようという試みに参画したこともあるのだけれど、今日ではそのようなデータを収集するのは不可能なばかりか、殆ど何の意味もなさない作業になってしまっている。〝秘境〟と称される所をも含め、地球上のあらゆる国々が日本人の〝仕事場〟になり、日本人の観光地になっているといっても過言ではなかろう。
 世界の隅々からリアル・タイムの映像がテレビのブラウン管を通して茶の間に流れ込んでくる。それぞれに専門化したカメラマン達が、殆どありとあらゆる分野にいて塀を競うように豪華な写真集を刊行したりしている。熱帯の密林も、砂漠の高山も極地も、見知らぬもの珍しいものではなく、むしろ全地球規模で〝保護〟〝保全〟を考えなければならないほどのものになってしまっている。最後の秘境といわれたパプア・ニューギニアの独立前後には、在ニューギニア文化人類学者の文化人類学調査が必要だ、などという笑い話が語られるほどになっていた。つまり、それまでは〝半素人〟にある種の〝成果〟を期待することが可能であった文化人類学や生物学の分野においても、〝学術調査〟は〝専門家〟が行うものでなければ無意味なものとなってきたのである。要するに〝探検家〟の出る幕はもうないと言わざるを得ない時代になってきたのである。

 実のところ、私の在籍していた学術調査探検部が解散し(その間の事情はまた別の機会に語ることがあるかもしれない)、現役後輩を持たないOBという懐古趣味以外には意味のない存在になって以来、私は探検部とか探検隊とかいうものとは縁がなくなるだろうと予想していた。私なりの冒険旅行はまだまだしてみたいと思っているのだけれど、それは多分、親しい友と個人的に、あるいは妻子を連れて気ままに出掛ける旅になるだろうと思っている。どういう訳か(実はいまだに私自身訳がわからぬままでいるのだが、いつの間にか)市大探検部の顧問などとという立場になっているけれど、今でもその気持ちは変わっていない。

 この気持ちは、私個人の〝探検〟についてのものである。教師としての立場で言わせてもらうならば、若い学生諸君にとって〝探検〟が無意味なものであるとは思っていない。というよりもむしろ、精一杯背のびをして、それぞれの探検の経験をしてほしいと思っている。確かに学生諸君の個人的体験がパブリックな意味を持ち得る可能性はあまり大きくはなくなったであろうし、もしかしたら探検部や探検隊はアナクロニズムの深みにはまりこんでしまって、もはや抜け出すことができないようなものであるのかも知れない。
 しかしながら、若き日に抱く好奇心とその好奇心を自らの手で満足させたいと希う探検心とは、彼が探検部員であろうとなかろうと、決して失われてはならないものではないだろうか。特に、あらゆる分野で専門化が進んでしまい、タコツボの中から覗くような専門家の眼でしかものを見ることができないようにさえみえる今日、素人の熱い心で世界を眺める見方が学問の世界においても忘れられてはならないのではないだろうか。

 現代は好奇心を持ちにくい時代である。身の回りにはあらゆる情報が氾濫しており、心に浮かぶ些細な疑問にも、したり顔の解説付きですぐに解答が与えられてしまう。特に子ども達にとって状況は深刻であり、かつて好奇心を育む栄養素であった自然と孤独とが失われ、好奇心を破壊しつくそうかという模範解答ばかりが巾をきかせている。おとな達は〝そんなことをしては危ない〟とか〝そんなことをさせるのはかわいそうだ〟とかいう保護の思想(!)にふり回されて、自分の疑問に自分なりの答えを出そうとする探検の精神を圧殺していることに気がついていない。
 それだからこそ私は学生諸君に、好奇心に自分なりの答えを出すことに挑戦してほしい。そのためには、自然を、孤独を求めなければならない。与えられた模範解答を拒絶しなければならない。保護の思想を打破するためには、責任は一身に引き受けるという覚悟での思い切った〝背伸び〟をしなければならない。しかも、それだけの犠牲を払って得られるものは、もしかしたら単なる自己満足に過ぎず、何の名誉も報酬ももたらしてはくれないかもしれない。けれども、そうやって一人一人の若者たちが、自らの力で、自らの責任で、自らの好奇心に自分なりの答えを見つけ出していくこと、そのプロセスこそを私は「自由」と呼んでおきたい。そして「自由」が実現されることが、そのことこそが、次の世代を拓くという意味で、〝探検〟の持つ本当の意味でのパブリックな意義なのだと私は確信している。

 自分ではまだ充分若いつもりでいて、高見に上った物言いはしたくないと思っているのに、何時の間にかそんな文章になってしまっている。〝顧問〟何ぞにまつり上げるからこういうことになるのだと、一言苦言を呈して筆を擱くことにする。

                僕は永遠の限界への君の欲望を謳う
             フェデリコ・ガルシア・ロルカ(澁澤龍彦譯


                                              1988年12月記
『EXPEDITION Ⅲ-創立30周年記念文集-』(1990年11月)より転載


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管理人:田村康一(1990年卒)