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横浜市立大学探検部員及び元探検部員がライフワークとして取り組んでいる、研究、自然観察、登山等についてのページです。

メキシコ合宿23年目穂積 拓夫(チャピンゴ自治大学教授)


■チャピンゴ自治大学・穂積拓夫教授が東京農工大学を表敬訪問

『東京農工大学-学報566号』
                                              2016年2月18日

■メキシコ合宿10年目(穂積 拓夫)

 早いもので今年(2009年)の3月でメキシコ滞在通算10年となります。1999年に政府交換留学生としてこの地で勉強・研究を開始してからあっという間の10年間でした。私が高校生の時2010年まで日付の入ったカレンダーを見て、その頃には博士課程を修了しているかなと漠然と思ったことを覚えていますが、まさかその通りになろうとは思いもしませんでした。
 こちらに住み始めてから探検部ともすっかり疎遠になってしまいましたが、最近ひょんなことから市大との関係を再び持つこととなりました。チャピンゴ自治大学(国立農業大学)で現在の職を得て以降、東京農大や農工大などの農学系の研究者等をアテンドする機会は結構あるのですが、市大に農学部はないし関係を持つことはまずないだろうと思っていました。しかしある日、横浜の大学の関係者が来るからと言われ、対応したところ市大の木原生物学研究所の坂先生と職員の酒井さんでした。私もびっくりしましたが、彼らもまさか卒業生がこんなところで教員の端くれをしているとは思いもされなかったようです。
 ちなみに坂先生は市大の教授になられる前は、私の勤務先の大学と同じ町にある国際トウモロコシ小麦研究所(シミット)に派遣されて小麦の育種の研究をなされたことがあり、その関係で市大とシミットの間の協定を取り持たれ、またそのついでにチャピンゴ大との関係構築の可能性を探って訪問されました。現在までのところあまり目立った動きはありませんが、昨年の9月に市大の学生を引率されて再訪問されました。その際にはぜひ何かメキシコ独特のものを見てもらおうと思い、近郊の伝統的な農家を訪問し「プルケ」という地酒をつくるリュウゼツランの栽培ならびに樹液の採取作業の見学を行いました。非常に短い時間でしたが、母校の学生グループを引率することは感慨深いものがありました。今後市大との関係がどうなるかはまだ分かりませんが、機会があればシミットのような国際研究機関での滞在では学べない、メキシコの先住民族の農を取り巻く状況ならびにその生計の立て方、またその中に於いて大学等の研究機関で作られた栽培品種・技術がどのような位置を占めているか等をフィールドに出て学んでもらうプログラム等を組んでみたいと思っています。

 なお、なにか偉そうなことを書きましたが、大学での所属は今のところ語学センターで、本来の仕事は日本語を教えることです。要するに唯の語学講師なのですが、大学の予算は使えないけれども自分がやりたい事、もしくはやるべきであると考える事が学部の教員と同じく自由にでき、現在のところ日本に関わる研究の論文指導、学生が日本で行う実習の指導、東京農大の学生のメキシコ農業視察旅行の計画・引率、日本からの研究者の対応などを行っています。また大学が農村や先住民地域の農業開発ならびに社会発展に貢献するという社会的な使命を有しているため、何かと理由をつけて所属する学内の研究グループの農村開発プロジェクトや自分の農村開発社会学の研究のためにフィールドに出ています。私に言わせると、学内では現在「環境保護」と「農村とりわけ先住民族地域の社会発展への貢献」が錦の御旗となっており、これらを大義名分として掲げることが、物事を進める上で重要になっています。

 勤務先の大学の日本語教育に関しては一つ興味深い点があります。なぜ日本語のクラスがこの大学に存在するのかを考えた場合、根底には科学技術の研究ならびに知識が蓄積されるセンターの一つとしての日本、ならびに農畜産物の有望な市場としての日本の存在が当然考えられます。しかし90年代以降強まった先住民の権利回復・文化の再評価の流れの中に於いては、上記の社会的使命を有する大学の中で別の重要性も有していると思っています。なぜなら、非西洋文化の日本がどのように西洋の科学技術を自らのものとしてその発展に利用し、また日本の農村部においてどのように独自の農・自然とのかかわりを構築してきたかという点(例えば鬼頭秀一や内山節などの議論)が、この国の先住民地域における、スペインによる征服以降の五百年間に於いて失われてきた文化・生活様式の再評価を通じて独自の生計の立て方や自然との関係を構築する取り組みにおいて、何らかのアイデアを与えうると考えるからです。
 そのため個人的には先住民出身の学生を特に大切にし、日本の有機農業や内発的な農村発展に関する実習を行う希望が持つ場合、多少無理をしても行かせるようにしています。そのため学内で「学生を(実習という)えさで釣っている」とか「学生に幻想を抱かせている」、「学内の規定を無視している」などいった批判も受けてきましたが、私はメキシコ農村の将来への投資として考えています。実際に日本で学んできた学生が出身の村もしくは農村地域に戻り、その発展に寄与できる保証はありませんが、彼らの日本での経験が何らかの形で役立ちうるように、卒業後もフォローできることはしてゆこうと努めています。
 メキシコ国内には、高等教育機関も含めて趣味としての日本語を教えているところが多いですが、我々の場合そうあるべきではないと考えており、学生には実習や研究のための留学といった具体的な目標を持ち、更にその先にそこで得た知識を役立て、どのようにメキシコ農村発展に役立てるかまでも考えてほしいと思っています。また私自身としては、すくなくとも日本政府の現在の外交戦略のひとつであろう、日本文化の理解・普及を通じた、いわゆる「ソフトパワー」の拡大の片棒を担ぐ尖兵とはなってはならないと肝に銘じています。
 
 今後は、博士論文が終わったところで、これまで温めてきた研究や農村開発プロジェクトのアイデアを実現して行こうと思っています。具体的には、ここメキシコで野生種から栽培種が発達したトマトに関して、地方在来種・ローカル市場も含めて味覚による市場の多様化に関する研究、またその農村発展への利用に関する研究、その他、所属する研究グループの地域開発プロジェクトの一環として、バニラを人類の歴史の中で一番早く発見・利用した「トトナカ」という先住民グループのバニラ生産者組合と日本等のいわゆる「先進国」の消費者ならびに企業とを結ぶフェアートレード関係の構築などを進める予定です。もともとフェアートレードへの関心から東京の小さいコーヒー会社に就職し、またその研究のためにメキシコへ来たため、この分野でぜひ何らかの貢献をし、それによりこれまで受けてきた研究・教育機会や奨学金等を社会に還元してゆきたいと思っています。
 また長期的な目標としては、企業(もしくは市場)と内発的農村発展を結びつける動きを進めることが挙げられます。その一つとして、商業的な農業生産に適さない半乾燥地帯の農村で伝統的に生産されてきたサボテンの繊維の自動車等のシートへの利用(例えば既にブラジルのアマゾンに存在するココナッツ繊維を生産する農村とドイツ系自動車会社との関係のようなもの)を「ニャニュ」という先住民グループの村むらと日系の自動車部品企業を巻き込んで進めてゆきたいと、ニャニュ出身の若手研究者らと一緒に考えています。
 なおラテンアメリカの農村社会学・農村開発学の世界では、まだまだマルクス主義的な社会的現実の捉え方が幅を利かせており(ちなみに私のいる大学の農村社会学科では1989年までマルクスの資本論を中心に学ぶカリキュラムとなっていました)、勢い「資本主義」、「企業(特に多国籍企業)」ならびに「市場」イコール諸悪の根源、また小農・先住民はその「無力な犠牲者」といったように議論されがちです。しかしながら農村で実際におこっている現実からは、これらとどうやって折り合いをつけて独自の社会発展を構築してゆくかということが重要であると考えています。実際に上記のアイデアがどこまで実現できるかは分かりませんが、せっかく行動を起こしてゆける条件を有しているので、それを有効に生かしたいと思っています。

 ところで、最近はフィールドには出るもののすっかり山には登らなくなりました。メキシコに住み始めてから数年間は5千メートル級の火山に幾つか登りましたが、しだいに研究・論文に追われその時間もあまりなくなり、また自分の関心の在りどころも、単に高い山に登ることから先住民族の里山で彼らの話を聞きながらその生活・仕事ならびに自然との関係を考察する方向に次第に移って行ったような気がします。しかし、今でも遠くから雪を被った高山をみると山に呼ばれている気がしますし、また山間部の渓流でどういうルートで遡上できるかなどと見ている自分に気づくことも多いです。
 メキシコでも沢登りができないことはないとは思いますが、ルートの情報は何もないし、地域によっては自然のスケールが違い、私の技術では命が幾つあっても足りないので怖くてできません。なおメキシコは変化に富んだ洞窟が多く、ケービングをするのに非常に恵まれています。実際メキシコ人の愛好家は「メキシコは地底のヒマラヤ」だと誇っています。私も当初は地底川へ入ったりしましたが、やはり技術がないため大したことができませんし、また地底はどうもあまり好きになれず最近は何もやっていません。
 しかし自転車だけは今でも乗り続けています。この地ではスポーツとしての自転車を除いては、一般的に貧者の移動手段と考えられています。ちなみに、ラテンアメリカ一般で外見を重視する傾向があるため、当初は知り合いの職員から真顔で「自転車なんかに乗っていると教員としてまともに扱われないのでは」と言われました。実際、常に自転車に相応しいスニーカー、ジーンズ、ウインドブレーカー、デイパックといった学生時代と何も変わらない格好をしているため、職員等から未だに学生と勘違いされることもありますが、もともと農村部を除いて教員の社会的地位が高くないこともあり、そんなこと気にもしていません。千名以上いる大学の教員の中でおそらく10名もいない自転車通勤者の一人として、自転車がその環境負荷ならびに「社会的費用」の低さから優れた通勤手段として正当な社会的認知を得られるよう頑張っています。

 最後に、この文集が長らく探検部顧問でいらっしゃった朝比奈先生の退官記念文集であることは十分承知しておりますが、実は一度もお会いする機会がなかったため他に書きようもなく、以上の近況報告に代えさせていただきます。唯一、先生に関連して時々思い出すことは、田村先輩から何度か聞かされた「朝比奈先生は学生時代に東大探検部をもはや探検するところはないという理由で廃部にされた」ということです。おそらく私が、分野こそ違うももの、今だに探検部の活動の延長のようなことをして「地を這い」、「燻り続けている」から思い出すのかも知れません。この地で友人らと長期休暇について話す際に、私はよく冗談で「もう10年前からずっと夏休みだから」と言うのですが、もしかしたら今「メキシコ合宿」10年目をやっているのかもしれません。南の島のKJさんや北の大地の大作君と似たようなものでしょうか。

『朝比奈大作先生退官記念文集』(2009年3月)より転載


■メキシコ・中米自転車旅行(穂積 拓夫)

 今回、スペイン語の研修及び6年間にわたる探検部での活動の最後を締め括る目的で、1月15日より60日の予定で、メキシコ及び中米を自転車で旅した。
 まず飛行機でメキシコシティに自転車を運び、地図を入手し、日本人宿でいろいろな情報を得て、1月7日に東に向かって走り始めた。この1日だけ、日本人宿で出会った世界一周中の他のチャリダーと走る。
 市内は交通量が多く、車が優先で、しかも運転が荒く、自転車は気にも留められない。また空気は薄く、しかも充分に汚染されているので、自転車の通行は困難を究めた。しかし、世界で最も人口が多い年の一つである割には、意外にすんなり郊外に抜けることができた。
 この日はシティから50kmほど離れた郊外の町に泊まる。翌日はメキシコシティのある盆地を囲む山脈を越えて100kmを走る。

 その二日後、高速道路に乗り、高原から低地へと一気に下った。高速道路は一応自転車の通行禁止だが、路肩が広く(一般道には路肩がない所も多い)、料金が日本並みに高いらしく交通量が少ない。そのため国道よりも面白みには欠けるが、安全かつ快適(都市部を除く)で、自転車で走っていても警官も普通はあまりうるさいことは言わない。
 その後、メキシコ湾岸のベラクルス州の最も貧しいと言われる地帯を走行中、「強盗が出るのでバスを使え」と警告されるが、その気になれなかった。その歩は既に80km暑い中を走って体力を消耗しており、しかももう午後であったことから、とりあえず近くの町に泊まることにした。

 翌日、危険を少しでも避けるため、朝元気なうちに危険地帯を通過しようと起床するが、何と周囲は濃霧に包まれていた。いかにも強盗が出そうに思えて嫌だったが、地元民に出発の是非を相談する。とりあえず、「国道まで途中で止まらず走り抜ければ大丈夫」とのことであったので、30km/h近い速度で突っ走った。
 ようやく国境が見えてきて一安心したときに、速度と距離を計る計器にふと目をやると、何となくなっていた。おそらく、途中の集落に設けられたハンプ(車を減速させるための道路の凸部分)を速度を落とさないでそのまま通過した際に落としたのだろう。旅を始めてから僅か8日目だった私は諦めきれず、危険地帯へ戻って探してみたが結局見つからなかった。
 当初「決して止まるな」と言われたせいで、見るものや会う人全てが怪しく思え、つい突っ走ってしまった危険地帯だったが、結局落とし物探しに2度目の走行をするはめとなった。私自身は2度目の走行中、何事にも出くわさなかったため、「初めにあんなにとばさなければ良かった」と後悔したが、実際にこの辺りはかなり危なかったらしい。後日、例の危険地帯で強盗に襲われ、蛮刀で切られて10針縫うけがを負ったチャリダーに会った。
 この辺りでは都市部を除き、蛮刀を農作業用に持ち歩く人が多いので、彼らはいつでも強盗に早変わりできるのである。
 
 2日後、地図上でメキシコが一番狭くなった部分にある海峡を南下する途中、小さな町に立ち寄った。暑くてどうしようもなく、ジュースを飲みにバーへ入ると、「この町から4時間車で奥地に入ったところに住む」という牧場主らと出会った。話しているうちに彼らの牧場についてゆくことになり、その日から4日間自転車をお休みすることにした。
 奥地の牧場では、電気・水道もなく、ダニに食われ放題の生活が待っていた。私は彼らと共に、沢を登り、藪を漕ぎ、川を下りながら鹿を追いかけた。しかし私は、風上から鹿が逃げないように追い立てる犬の役目を仰せつかっていたため、いまいち狩りの醍醐味を味わえなかった。但し、鹿肉は絶品で、生肉のレモンじめなどもなかなか美味であった。
 その後再び自転車旅行を再開し、チアバス州の太平洋岸を低地沿いに進んだ。この辺りは日中非常に暑くなり、何度か軽い日射病になった。きれいな川が多いところだったので、気温の高い昼間は川岸の木陰で昼寝をしつつ走り続けた。

 出発から約2週間でメキシコを抜け、グアテマラに入った。以前訪れたことのある高原地帯を避け、今回は太平洋側の低地に進路を取った。このと地域は砂糖の生産地であり、砂糖漆の汁を蒸発させる際の灰がたくさん飛んでいたため、それが次から次へと目に入ってとても辛かった。
 グアテマラを3日間で走り抜け、エルサルバドルに入った。ここは内戦が終結して間もないため、内戦中に流出した武器を手にした強盗が多いと聞いていたが、昼間国道を走る分には問題がなかった。道もかなり整備されており、非常に走りやすかった。
 その後、ホンジュラスを1日で通り抜け、ニカラグアに入った。さらに4日後、コスタリカに到着した。コスタリカに入ると、ドライバーのマナーが格段に良くなった。それまでの国々の運転があまりにひどかったので、非常に運転しやすく感じられた。
 コスタリカ入りして5日程後、1200kmくらいの高低差のある峠を登り、中央盆地に入り、今回の旅の目的地である首都サンホセに着いた。メキシコシティから自転車で約40日、2700kmの行程であった。幸いなことに強盗・交通事故にもあわず、それどころかパンク一つしないでこの自転車行を終えることができた。私の知る限り、この時期に5人程の日本人チャリダーが走っていたが、そのうち1人は強盗に遭って旅を中止し、他の1人は交通事故にあったということだったので、私の旅は非常に恵まれていたといえるだろう。

 サンホセからさらにパナマに行っても良かったが、メキシコでどうしても行きたい場所があったため、ここで南下の旅は終わりにし、飛行機でメキシコに自転車を運んだ。今度はメキシコシティから西へ向かって進み、1億匹もの長が群生するという森、また沼や川がそのまま温泉になっている所を自転車で訪れた。約10日後、メキシコシティに戻り、小旅行を終えた。

 最初のメキシコ~コスタリカ間の自転車行で、目的地のサンホセに着いた時、思ったよりもあっけなく着いてしまい、しかもゴールが都市であることからか、登山で山頂にたった時のような達成感は感じなかった。しかし、帰国後振り返ったり、地図を眺めたりしていると、やはり満足感がこみ上げてくる。昨年の夏合宿の釧路川筏下りもそうであったが、あとからじわじわと目的を達成した喜びを感じている。
 今回のこの旅で、自転車旅行の良さを知ってしまったわけだが、同時に6年間探検部に在籍していて初めて、「もう満足」と思えるようになった。こういう気持ちで卒業できて、非常に嬉しい。
 今はもう満足といった感じではあるが、いつか機会があったら方々の山に登りつつ、コスタリカから先、パナマ、南米、さらにはアフリカへと自転車で旅してみたい。
                                              (1997年記)
『EXPEDITION Ⅳ-1988~1998-』(2000年11月)より転載

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