当サイトは、横浜市立大学探検部の過去の活動記録を収集、整理、公開するためのホームページです。

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ボリビア・メキシコBolivia&Mexico

■南米

○○○○○○○○イメージ1999年8月2日〜9月17日:南米ボリビア遠征


隊 員:片平吉秀、中村淳一、熊原武博、福榮太郎、本間俊一、
    門間奈々、小山久美子、室小野花、本田肇、高橋千帆
   (中央大学)、大矢明子(中央大学)、多田真由美(拓殖
    大学)、園田直(町田酒造)、濱本幸人(町田建設)
報告書: 『ボリビア日本人移民100周年記念
    国立国会図書館蔵書
概 要:日本人のボリビア移住100周年の1999年に、インカ道ト
    レッキング、初期移住者の足跡を辿るマドレ・デ・ディ
    オス川下り等を行う。
    探検の模様はNHK-BSで放映されるなど多くのメディア
    で取り上げられて反響を呼び、横浜市立大学学長賞を受
    賞した。

■ボリビア・メキシコ位置図


■中米

○○○○○○○○イメージ 1997年1月15日〜3月16日:メキシコ・中米自転車旅行


隊 員:穂積拓夫
報告書:『メキシコ・中米自転車旅行』
概 要:60日間に及ぶメキシコ〜コスタリカ間の自転車旅行。
    メキシコ→グアテマラ→エルサルバドル→ニカラグア→
    コスタリカの順に踏破。
    登山のような行為直後の達成感は感じられなかったが、
    後になってじわじわと満足感がこみ上げてくる、そんな
    旅であったとのこと。

■メキシコ・中米自転車旅行(穂積 拓夫)

 今回、スペイン語の研修及び6年間にわたる探検部での活動の最後を締め括る目的で、1月15日より60日の予定で、メキシコ及び中米を自転車で旅した。
 まず飛行機でメキシコシティに自転車を運び、地図を入手し、日本人宿でいろいろな情報を得て、1月7日に東に向かって走り始めた。この1日だけ、日本人宿で出会った世界一周中の他のチャリダーと走る。
 市内は交通量が多く、車が優先で、しかも運転が荒く、自転車は気にも留められない。また空気は薄く、しかも充分に汚染されているので、自転車の通行は困難を究めた。しかし、世界で最も人口が多い年の一つである割には、意外にすんなり郊外に抜けることができた。
 この日はシティから50kmほど離れた郊外の町に泊まる。翌日はメキシコシティのある盆地を囲む山脈を越えて100kmを走る。

 その二日後、高速道路に乗り、高原から低地へと一気に下った。高速道路は一応自転車の通行禁止だが、路肩が広く(一般道には路肩がない所も多い)、料金が日本並みに高いらしく交通量が少ない。そのため国道よりも面白みには欠けるが、安全かつ快適(都市部を除く)で、自転車で走っていても警官も普通はあまりうるさいことは言わない。
 その後、メキシコ湾岸のベラクルス州の最も貧しいと言われる地帯を走行中、「強盗が出るのでバスを使え」と警告されるが、その気になれなかった。その歩は既に80km暑い中を走って体力を消耗しており、しかももう午後であったことから、とりあえず近くの町に泊まることにした。

 翌日、危険を少しでも避けるため、朝元気なうちに危険地帯を通過しようと起床するが、何と周囲は濃霧に包まれていた。いかにも強盗が出そうに思えて嫌だったが、地元民に出発の是非を相談する。とりあえず、「国道まで途中で止まらず走り抜ければ大丈夫」とのことであったので、30km/h近い速度で突っ走った。
 ようやく国境が見えてきて一安心したときに、速度と距離を計る計器にふと目をやると、何となくなっていた。おそらく、途中の集落に設けられたハンプ(車を減速させるための道路の凸部分)を速度を落とさないでそのまま通過した際に落としたのだろう。旅を始めてから僅か8日目だった私は諦めきれず、危険地帯へ戻って探してみたが結局見つからなかった。
 当初「決して止まるな」と言われたせいで、見るものや会う人全てが怪しく思え、つい突っ走ってしまった危険地帯だったが、結局落とし物探しに2度目の走行をするはめとなった。私自身は2度目の走行中、何事にも出くわさなかったため、「初めにあんなにとばさなければ良かった」と後悔したが、実際にこの辺りはかなり危なかったらしい。後日、例の危険地帯で強盗に襲われ、蛮刀で切られて10針縫うけがを負ったチャリダーに会った。
 この辺りでは都市部を除き、蛮刀を農作業用に持ち歩く人が多いので、彼らはいつでも強盗に早変わりできるのである。
 
 2日後、地図上でメキシコが一番狭くなった部分にある海峡を南下する途中、小さな町に立ち寄った。暑くてどうしようもなく、ジュースを飲みにバーへ入ると、「この町から4時間車で奥地に入ったところに住む」という牧場主らと出会った。話しているうちに彼らの牧場についてゆくことになり、その日から4日間自転車をお休みすることにした。
 奥地の牧場では、電気・水道もなく、ダニに食われ放題の生活が待っていた。私は彼らと共に、沢を登り、藪を漕ぎ、川を下りながら鹿を追いかけた。しかし私は、風上から鹿が逃げないように追い立てる犬の役目を仰せつかっていたため、いまいち狩りの醍醐味を味わえなかった。但し、鹿肉は絶品で、生肉のレモンじめなどもなかなか美味であった。
 その後再び自転車旅行を再開し、チアバス州の太平洋岸を低地沿いに進んだ。この辺りは日中非常に暑くなり、何度か軽い日射病になった。きれいな川が多いところだったので、気温の高い昼間は川岸の木陰で昼寝をしつつ走り続けた。

 出発から約2週間でメキシコを抜け、グアテマラに入った。以前訪れたことのある高原地帯を避け、今回は太平洋側の低地に進路を取った。このと地域は砂糖の生産地であり、砂糖漆の汁を蒸発させる際の灰がたくさん飛んでいたため、それが次から次へと目に入ってとても辛かった。
 グアテマラを3日間で走り抜け、エルサルバドルに入った。ここは内戦が終結して間もないため、内戦中に流出した武器を手にした強盗が多いと聞いていたが、昼間国道を走る分には問題がなかった。道もかなり整備されており、非常に走りやすかった。
 その後、ホンジュラスを1日で通り抜け、ニカラグアに入った。さらに4日後、コスタリカに到着した。コスタリカに入ると、ドライバーのマナーが格段に良くなった。それまでの国々の運転があまりにひどかったので、非常に運転しやすく感じられた。
 コスタリカ入りして5日程後、1200kmくらいの高低差のある峠を登り、中央盆地に入り、今回の旅の目的地である首都サンホセに着いた。メキシコシティから自転車で約40日、2700kmの行程であった。幸いなことに強盗・交通事故にもあわず、それどころかパンク一つしないでこの自転車行を終えることができた。私の知る限り、この時期に5人程の日本人チャリダーが走っていたが、そのうち1人は強盗に遭って旅を中止し、他の1人は交通事故にあったということだったので、私の旅は非常に恵まれていたといえるだろう。

 サンホセからさらにパナマに行っても良かったが、メキシコでどうしても行きたい場所があったため、ここで南下の旅は終わりにし、飛行機でメキシコに自転車を運んだ。今度はメキシコシティから西へ向かって進み、1億匹もの長が群生するという森、また沼や川がそのまま温泉になっている所を自転車で訪れた。約10日後、メキシコシティに戻り、小旅行を終えた。

 最初のメキシコ〜コスタリカ間の自転車行で、目的地のサンホセに着いた時、思ったよりもあっけなく着いてしまい、しかもゴールが都市であることからか、登山で山頂にたった時のような達成感は感じなかった。しかし、帰国後振り返ったり、地図を眺めたりしていると、やはり満足感がこみ上げてくる。昨年の夏合宿の釧路川筏下りもそうであったが、あとからじわじわと目的を達成した喜びを感じている。
 今回のこの旅で、自転車旅行の良さを知ってしまったわけだが、同時に6年間探検部に在籍していて初めて、「もう満足」と思えるようになった。こういう気持ちで卒業できて、非常に嬉しい。
 今はもう満足といった感じではあるが、いつか機会があったら方々の山に登りつつ、コスタリカから先、パナマ、南米、さらにはアフリカへと自転車で旅してみたい。
                                              (1997年記)
『EXPEDITION W-1988〜1998-』(2000年11月)より転載

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