当サイトは、横浜市立大学探検部の過去の活動記録を収集、整理、公開するためのホームページです。

Mail:tmr7435@outlook.jp

ツバル・オーストラリアTuvalu Islands&Australia

■南太平洋

○○○○○○○○イメージ 2004年8月2日〜9月30日:南太平洋ツバル調査隊


隊 員:綱島祥三、清水藍子、黒川圭太、魚住直未、
    小此木朋子、讃岐友子、今井美津子、野澤昌勝、
    岡原祥子(前年の偵察隊参加) 
計画書:tuvaluplan_2004
報告書:ツバルプロジェクト活動報告書
報 道:朝日新聞DIGITAL
概 要:
地球温暖化の影響と考えられる海面上昇により、水没の危機に見舞われている南太平洋の島嶼国家ツバル。
首都のフナフチ島をベースに、各隊員がバイツブ島、ヌイ島、ヌクフェタウ島の3島に分かれてホームステイし、ツバルの直面する人口増加や、水不足、ゴミ処理、 気候変動等の環境問題、漁業・農業等の生業、伝統舞踊・楽器・歌等の生活文化を体験調査した。


■オセアニア・南太平洋位置図



■オセアニア

○○○○○○○○イメージ 1991年10月23日〜1992年3月3日
  オーストラリア大陸横断自転車行


隊 員:佐々木仁
報告書:『オーストラリア大陸横断自転車行』
概 要:大陸南西部のパースを出発し、ノースマン→アデレード
    →(エアーズロック観光)→メルボルン→タスマニア→
    メルボルンを経て、ゴールのシドニーに至る約4ヶ月間
    に及ぶ自転車単独行。
    オーストラリアの印象を問われると、「まず風の国、次
    にハエの国、そして最後に広い広い国。」であったとの
    こと。

■オーアストラリア大陸横断自転車行(佐々木 仁)


 私は大学4年の時(1991年)に1年間休学し、自転車で旅をした。まず、5月の終わりから8月の上旬にかけて、東北の太平洋側から北海道をほぼ海沿いに一周した。その後、北海道より戻ってから準備とアルバイトをして、10月の終わりにオーストラリアに渡り、約4ヶ月をかけ横断した。この文章は、そのうち、オーストラリアの横断についてのものである。

【いざ、オーストラリアへ】

 オーストラリアはどんな国かと聞かれたら、「まず風の国、次にハエの国、そして最後に広い広い国。」と答える。
 1991年10月23日、私はオーストラリアに向けて旅だった。そもそも、大学に入学して探検部の扉を叩いたのは、高校の時に、自転車でオーストラリアを縦断した人の手記を読んだのがきっかけだった。その手記に触発され、自分も大学時代にしかできない何かおもしろいことをしてみたいと漠然と思い、その可能性のある探検部に入部したのだった。あれから4年近く、いわば自分の出発点を確認するような旅である。
 が、正直に言うと、希望に満ちあふれた前途洋々たる気持ちばかりではなかった。前日までは、心の中はむしろ不安で一杯だった。海外にまったくの一人で行くのはこれがはじめて、英語もほとんど話せない。もちろん海外サイクリングもはじめて。未知の地に一人で行くことのほかにも、自転車を無事オーストラリアに運ぶことができるだろうかといったことから、メカのこと、道のこと、気候のこと、現地で調達するもののこと、無人の地帯で自転車が壊れたらどうしようかといったことまで、考え出すといっそのこと投げ出してしまいたいと思うことも度々だった。
 出発の何日か前に部のみんなが壮行会を開いてくれた。前日の夜には吉見と児玉が電話をくれた。何気ないことではあるけど本当にうれしかった。そして当日の朝には三浦と小森がわざわざ見送りに来てくれた。心細く感じていたときだけに、みんなの存在のありがたみをつくづく感じた。
 久しぶりの成田。荷物をカウンターに預けるときに、10kgオーバーで5千円の追加料金を取られる。そしてとうとう出国。三浦に見送られて出国カウンターへ向かった。もうあと半年は帰ってこないのかと思うと、感慨もひとしおであった。出国手続きを済ませて搭乗ゲートに向かう途中、大学1年の夏、初めての海外(フイリピンの民族探検)の時に先輩の佐藤さんから言われた言葉、「おい、もうここは日本であって日本じゃないんだぞ。」というのを思い出した。
 途中、クアラルンプールで2泊後、10月25日オーストラリア、パースへ到着。空港から外に出ると、良く晴れていて、生暖かい風が吹いていた。風に乗ってハエが1匹僕の顔に止まった。これが忘れもしないオーストラリアとの最初の《遭遇》だった。

【パースで】

 パースに着いてから走り始める11月7日までの間、これから半年間旅するオーストラリアに慣れるため、また情報収集と準備を兼ねて2週間ほどパースに滞在した。パースでは、チャイナタウンの近くにあるノースブリッジ・ユースホステルに滞在した。ここには当時、ワーキングホリデーの人をはじめ、バイクで旅している人など日本人が多く泊まっていた。そのため、まだ来たばかりで右も左もわからぬ中、一人で心細さを感じることもなく、いろいろと話したり教えてもらったりでき、とても楽しい時を過ごせた。よく異国の地で日本人だけで群れることの是非を言われることがあるが、自分はあまり気にしなかった。英語ができないため、日本人以外の人との会話に入りたくとも入れなかったということもあるが、それよりもむしろ、直前に北海道を自転車で回って旅先でいろいろな人と接していたこともあって、たとえ外国で会う日本人同士だとしても、違いはその場所が北海道か異国の地かというだけで、旅先で出会う人ということに変わりはなかったからだ。
 パースに着いて驚いたことがいくつかあった。たとえば町中では、まず老若男女を問わずサングラスをかけて歩いていた。また、多くの若者たちは靴を履かず裸足で歩いていた。裸足の意味は分からないが、サングラスはすぐにわかった。地中海性気候であるパースの10月は、風は冷たいが日差しはとても強いのである。
 自分も1週間としないうちに、町中を歩いていただけで、日に焼けて顔の皮がぼろぼろと剥け始めるほどだった。ここではサングラスと帽子は必需品だったのだ。そのほかにも驚いたことはいろいろとあったが、困ったのはこの国では、士曜日は半日で、日曜日は一日、店が休みになってしまうことだった。これにはその後も不自由させられた。
 パースに到着後一週間経ってから初めて自転車を組んでみると、致命的なことが起こっていた。後輪が引っかかってうまく回らない。よく見るとリム(車輪)が歪んでしまっていた。飛行機で輸送時のトラブルだろう。パッキングの仕方が悪かったのだろうか。きっと、クアラルンプールで下ろしたときか何かに、雑に扱われたのであろう。ともあれ、このままでは横断どころか、ほとんどまともに走ることができない。まさか…。どの程度深刻なのだろうか。見てみたが、自分ではどうにもできそうにはないので自転車屋に持っていった。するとそこには同じサイズ(650A:26×1 3/8)のリムはなく、取り寄せにはかなり時間がかかるそうであった。一瞬目の前が真つ暗になった。そのとき、店員の人が一応トライしてみるからとリムに力を加えたりスポークの張りを調整したりして何とか直してくれた。そして「保証はないが、たぶんこれでシドニーまでは大丈夫だろう。」と言ってくれた。本当に助かった。その店員には、つたない英語ながらも厚くお礼を言うと、こちらの気持ちが伝わったらしく、「これが自分たちの仕事だし、こうして自転車で走る人の手助けができてうれしい。そして自転車で走ることを通じて外国の人にオーストラリアを知ってもらえることができれば幸いだ。」というようなことを言ってくれた。そして最後に握手をして別れた。
 パースでは身の回りのもののほか、地図、キャンピングガス(火器)などを揃えて準備を整え、11月7日、ユースで同宿の数人に見送られてパースを出発した。これから始まる長い旅のスタートだった。

【今回の計画及び行程概要等】

 今回の計画はパースからシドニーまでオーストラリアを横断するというものであった。コースとしては、パースから94号線をまっすぐ東に向かい、ノースマンで1号線に入りナラボー平原を越え、あとは1号線沿いにアデレード、メルポルンを経てシドニーに入る予定であった。また、横断後、日数に余裕があれば、ニュージーランドに行くことも当初は視野に入れていた。しかし、パースで得た情報では、@パースから南に海沿いに進めば、観光客も少なく非常にきれいなビーチがある、Aニュージーランドでは南島がきれいだが、2月に入ると寒くなる、ということだった。せっかく来たのだから、西オーストラリア州南部の、人が少なくて静かな海にはどうしても行ってみたかった。しかし、仮にパースからナラポーの入り口の街ノースマンまで海沿いに行くとすると、速回りになり、自分のぺースからいってニュージーランドに渡るのは時間的にもきつい。そこで、計画を変更して@パースから1号線をそのまま海沿いに南下する、Aペースを見て無理そうであったらニュージーランドには行かず、その代わりにメルボルンからタスマニアに渡る、ことにした。
 行程の概要としては、11/7にパースを発ち、1号線を南下して11/18アルバニー、11/24エスぺランスを経て、11/29ノースマン着。12/1〜12/13にかけてナラボー平原を横断(1,206km)。 12/18ポートオーガスタ、12/21アデレード着。アデレードで一旦自転車を置き、エアーズロツク等を観光。年が明けて1/12、3週間ぶりにアデレード発。再び1号線を南下し、1/24メルボルン着。1/29〜2/19タスマニアを走行。2/20にメルボルンに戻り、再び1号線を北上。そして3/3、ようやくゴールのシドニーに到着した。
 全体を通して振り返ってみると、ナラボーに入るまでは、体も慣れておらず、道のアップダウンもきつく、天候も不順で、精神的にも体力的にも非常に厳しい行程であった。しかし、そうしてたどり着いたエスぺランスの海はシーズン前で人が少ないためでもあったが、すばらしくきれいで非常に感動した。ナラボーは、当初から今回の最難所と覚悟していたため、精神的にはそれほど滅入ることはなかった。ただしそれも天候に比較的恵まれた(晴れた日ばかりではなかった)という点を見落とすことはできないと思う。日差しが強い日や風の強い日はやはり体力的にはきつかった。また、ナラボーはただ厳しいだけでなく、自分が憧れた「広い広い大地を走ってみたい」という想いを満たしてくれた場所であった。その意味で、今回の旅でもっとも感動した風景はナラボーにあった。
 その後、ポートオーガスタからアデレイド、メルボルン、シドニーと1号線を走ったコースは、ナラボーを越えて緊張感がなくなったせいもあったが、それまでと比べると魅力に乏しかった。これまでに走ってきた地域に比べ街が多く人もそれなりに住んでいるので、広く何もない大地に憧れた自分には面白味に欠けた。加えて、大都市への出入りが自転車にとってどんなに不快で苦痛であるかを思い知らされた。また、メルポルンからシドニーまではアップダウンの多い道だった。
 タスマニアは2月(真夏)なのにさすがに寒かった。そして確かにきれいであった。オーストラリアで会った人の中にはタスマニアを絶賛する人も多かった。が、求めたオーストラリアとはやはり違うなという気がした。

<行動記録の詳細は、『オーアストラリア大陸横断自転車行』参照>

【自転車と探検・冒険・探検部活動・・・】

 さて最後に、探検、冒険活動という点から、オーストラリアを自転車で走ったことについて考えてみたい。
 今回取ったルートは、一部の区間で町と町の間の距離が長く、途中その次の町までは、本当に何もないというところもあった。しかし、基本的には、車であれば普通に走れるし、自転車でも、これまで数え切れないほど多くの人が横断しているルートである。これが、「ストックルート」(内陸部のダートコースで数百kmに渡って水、食料等補給不能なルート)であれば、車でも極めて困難なコースとなるが、自分が走ったのは、そうではなく、ほとんど全ての区間において舗装された、車も(多くはないが)普通に通る道である。
 また、海外サイクリングといっても、オーストラリア一国だったため国境越えに伴う煩わしさもなかったし、先進国であることと治安の良さから、余計なことに気を遣うこともなかった。走る前はいろいろと不安が一杯だったが、実際に走ってみると、気力と体力の勝負であった。
 では、このような自転車による走行は、探検活動??、いや冒険活動?と言えるのであろか。こうした疑問に、自分自身どのように考えるかである。
 たしかに、バイオニアワークという観点から見れば、今回の走行は探検活動などではない。また、車も通る日常空間での体力勝負となれば、冒険にも当てはまらないであろう。
 もともと、なぜ、自転車でオーストラリアを走ったのかといえば、ひとつは単にオーストラリアを走ってみたいという憧れがあったこと、そしてもう一つは、探検活動という点からは邪道であるが、自分自身の中で、何かひとつやり遂げたいという思いがあったからである。当時、オーストラリアの前に北海道を走ったことも含め、自分の未知なることに挑戦することによって、それを終えたあとには何か新しいことが見えてくるのではないか、と思ったのだ。だから、今回の走行はもともと自己の中での意味合いが強く、横断に成功したとしても客観的な意義は薄い、ある意味では主観的な自己満足に過ぎない。
 だから、今回の走行は、探検なのか冒険なのか、あるいは何なのかという問いには、しいて言えばそれは「旅」である、というより「旅」でしかない、そう答えるのが、本当のところ、いちばんぴったりと来るのかと思う。
 しかし、それでもあえて、今回の旅を探検部員としての活動と結びつけるとしたら、海外サイクリングという自己の未知なる世界に一人で踏み出したこと、そしてそこで汗を流したことをもって、自分個人としての冒険活動としたい。探検もしくは冒険をする部である操検部に籍を置くものとして、こうして冒険活動をした、それが、今回の旅と自分の探検部活動との総括である。

【最後に】

 この旅では大自然、大地の広さを自分の体で感じることができた。
 「まず風の国、次にハエの国、そして最後に広い広い国。」走っていて実感したのは、と聞かれたら迷わずこう答えるだろうということである。この言葉が大げさではなく。びったりと来るほどオーストラリアというところは風が強く、ハエが多く、広い国であった。
 暑さ、雨、向かい風、しつこく顔にたかってくるハエ、アップダウンの多い道、重い荷物、町が少ないルート・・等々、自転車で走るには苦労の方が多かった。しかし、だからこそ、車なら通り過ぎてしまうような何気ない景色に、ものすごく感動できた。いろいろな人と会い、話をし、親切にしていただいた。自分のほかにも、同じような状況でがんばっている多くの人と出会った。
 この国を自転車で走れたということは、今回の旅が、探検や冒険なのかということを抜きにしても、やはり貴重で充実した体験だったと思う。
                                               (1999年記)
『EXPEDITION W-1988〜1998-』(2000年11月)より転載




ナビゲーション

バナースペース

横浜市立大学探検部WEBサイト

Mail:tmr7435@outlook.jp

管理人:田村康一(1990年卒)