当サイトは、横浜市立大学探検部の過去の活動記録を収集、整理、公開するためのホームページです。

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ネパール・ヒマラヤNepal Himalaya


■アンナプルナ山群

○○○○○○○○イメージ 1995年2月21日〜4月7日:チュルー遠征


隊 員:稲田俊、藤本謙治、佐藤栄宏、伊吾田宏正、
    小林剛、松林孝憲
報告書:『1995・ネパール・ヒマラヤ チュルー登山隊の報告』
概 要:当時、日本の登山隊には未踏とされていたチュルー東 峰(6598m)の登頂を目指すが、急峻なナイフリッジに阻まれ断念。双耳峰であるチュルー西峰(6400m)に全員が登頂する。


■クーンブ山群

○○○○○○○○イメージ1989年2月11日〜3月22日:アイランド・ピーク遠征

隊 員:田村康一、高梨洋之、種子田幸太郎、小嶋健太、大沢啓志
    常世田泰正(空手部)
報告書:『ネパール・ヒマラヤ探検報告書』
    横浜市立大学学術情報センター蔵書
報 道:朝日新聞
概 要:ローツェ支稜のアイランド・ピーク(6189m)登山及びドゥー
    ド・コシ、ロブチェ・コーラにおける水生昆虫・付着藻類の調
    査を行った。
    アイランド・ピークには高梨が同行のシェルパとともに登頂。

○○○○○○○○イメージ

1991年2月20日〜3月27日:メラ・ピーク遠征

隊 員:吉見敦司、三浦研、小森啓志、立木大造、田村康一
報告書:『1991 メラ・ピーク登山隊報告書』
概 要:クーンブ山群南に位置するメラ・ピーク(6654m)の登山隊。
    食糧不足による飢餓、クレバス転落等のアクシデントを乗り越
    え、全員登頂を果たす。

←メラ・ピーク山頂にて(撮影:三浦研)





■ネパール・ヒマラヤ位置図




■1995・ネパール・ヒマラヤ チュルー登山隊の報告(稲田 俊)


 私、稲田俊を隊長としたチュルー登山隊は、1995年2月21日から4月7日までの期間、ネパールのチュルー・イースト峰(標高6598m)の登頂を目指した。遠征には私(国際4年)のほか、藤本謙治(1994年卒、国際)、伊吾田宏正(生物3年)、小林剛(国際3年)、佐藤栄宏(国際3年)、松林孝憲(経済3年)の6人が参加した。
 同国の西寄りに位置するチュルー・イースト峰は、標高6400mのウエスト峰との双耳峰。安価なトレッキングパーミッションで入山できるうえ、記録上、日本の登山隊には未踏峰とされていた。
 3月4日にポカラの東にあるベシサハールという町からキャラバンを開始。13日間にわたる長いキャラバンの末、16日にBC(4750m)を設営した。24日、C2(5850m)からイースト峰にルート工作するも、ナイフリッジに阻まれ、同峰アタックを断念。同日と翌25日にかけ、ウエスト峰に全員が登頂した。

 遠征から4年が過ぎた今、少し色あせたフィールドノートをめくり、当時のことを振り返る。何とレベルの低い登山隊だろうかとあきれる。高所登山経験者は、中国の天山山脈トムール峰(7435m)第2次登山隊に参加した私一人。その私ですらも、登攀技術や登山戦略のノウハウなんか、皆無に等しい状態だった。
 しかし、未熟で無謀とはいえ、私を含めた6人の部員が隊員として名乗りを上げた。なぜ、この6人はネパールに向かったのか。

 初めに、ヒマラヤ登山が遠征計画に上がった経緯を説明したい。1994年当時、部長だった私は探検部の盛り上げのため、「部員全員参加」、「場所は海外」を前提とした遠征計画を練る勉強会を部会中に開いていた。
 その場では、オーストラリア徒歩縦断、サハラ砂漠ラクダ行、ザイール川下り、ギアナ高地でテーブルマウンテンに登る・・・などの案が出た。しかし、どれも説得力と実現性に薄く、なかなか遠征案を絞ることができないでいた。
 そんな中、伊吾田が何のレジュメも示さず、ヒマラヤ登山を口頭で提案した。まったくの思い付きのようにみえたが、彼の提案は一部の部員を強く魅了した。(後に、伊吾田が横浜の小さな居酒屋で、これ以前にOBの田村康一氏から洗脳されたらしい事情が判明する)。
 岩登り好きの松林は、当時、部内で登山人気が下火だったことに気兼ねし、あえて自分の遠征案から山の計画を外していた。しかし、「具体的で、一番実現・成功の可能性が高い」と提案に飛びついた。遠征そのものに積極的だった佐藤も即座に便乗。トムール峰での雪崩撤退が尾を引いていた私も、敗者復活の思いで参加を希望した。
 ここで遠征に向けた勉強会は、さまざまな計画を提案する場から、ヒマラヤ行きを渋る部員の説得の場へとすり替わってしまった。後に、「登頂への意気込みはなかった」ものの、遠征課程においての諸体験を期待した小林と、かつてトムール峰に行くつもりだった藤本が参加を表明。
 こうして1994年秋、当初の目的とは異なる形で半ば強引にヒマラヤ遠征が決まった。

 遠征の期間を翌1995年の春休みに据えた登山隊は準備を急いだ。これまで高所登山4回を経験している部としての蓄積が現れたのか、装備や食料といったそれぞれの係での準備はスムースに進んだ。
 訓練では、部会後のランニングこそ1回でやめたが、11月からは精力的に山行に出た。チュルーは、短いロックバンドが一箇所あるだけの易しい山との情報を得ていた。技術と体力について不安を抱える隊員もいたが、北アルプスや中央アルプス、谷川岳、富士山などで訓練合宿を重ね、少しずつ自信を付けていった。
 一方、高度順応の研究も平行して進めた。私と藤本で、半分けんかのように議論しながら登攀計画を練り、それを隊員全員で再び話し合うことで、高所登山への理解を深めていった。
 
 さて、話は実際の遠征に入る。帰りのキャラバンを終えてカトマンズに戻るまでの34日間の登山期間中、私たち6人は気持ち悪いほど仲が良く、いつ殴り合ってもおかしくないほどに、いがみ合っていた。
 藤本と佐藤はキャラバン中、常に一緒に歌を歌いながら楽しそうに並んで歩いていた。日本の風景にも似た狭い谷間には、二人の歌声が延々とこだました。また、藤本はバッティ(茶屋)で液体燃料を水と間違えて一気飲み。佐藤は、日本に残した愛する彼女の名をストックで雪面に刻んだ。それだけなら牧歌的だが、小林は「あいつらバカだ」と公然と言い放ち、無神経ぶりを発揮していた。
 
 BCから上では、体力のある私と松林は、常にザイルを結びルート工作を担当した。しかし、ラッセルを一手に引き受けるため、後続の隊員たちに対しての憎悪がふつふつと沸き上がっていった。松林は、それをグッと心の奥底に抑えることに美学を感じていた。
 信仰に厚く、最も穏健派と思われていた伊吾田は、ウエスト峰山頂で理性が吹き飛び、何を思ったのか全裸に。「ねぇ、はやくぅ、はやく撮ってぇ」と写真撮影をせがむ伊吾田。私の頭の中には「こいつ、まさかこれが目的で遠征に参加したんじゃないだろうな」という思いがよぎった。
 伊吾田は「人類の歴史において、6000m以上の高度で全裸になった人間は僕をおいていないだろう」と誇らしげに語る。彼の野望は、全裸による冒険で勲一等を受賞し、徹子の部屋全裸出演、全裸月面着陸で終了らしい。

 一方、私は隊長というプレッシャーで、神経質になっていた。そのため、沈黙を保つか、怒鳴り散らすかの二種類の感情表現しかできない大魔神像のようになっていた。怒鳴る対象は、生意気な隊員やポーターはおろか、有能だったガイドにも及んだ。
 登山期間中、最も隊員間が険悪になったのは、下山中に私と藤本、伊吾田が大雪でC1に足止めを食らった時だ。降雪が弱まった時を狙い、BCに既に下っていた小林と佐藤、松林の助けを借りて一気に荷物と共に下ろうとした。しかし、小林と松林はC1まで上がることに抵抗した。
 キレた私は彼らと無線で口論になり、それがもとで、私・藤本・伊吾田の3人と、小林・松林の断絶の構図が生まれた。佐藤はコウモリ役だった。これは、私たちがBCに下ってからも続いた。しかし、帰りのキャラバンが始まる前の晩に、それぞれが腹を割って言いたいことを言い合い、タバコを喫って、さわやかに和解した。
 イースト峰のアタック断念をC2で決めた時、悔しくてみんな、泣いた。ほかの人に見られないように隠れながら。登攀終了の儀式は、やはりタバコだった。

 振り返ってみれば、チュルー遠征は単なる愛憎うずまくドタバタ劇だった。それでも、それぞれの隊員に、それぞれの強い思い出が刻まれた遠征だった。
 松林は、名だたる高峰に囲まれた場所で過ごした体験を思い起こしながら、「チュルー登山の終わりを感じた所は、今では始まりの場所となった」という。佐藤も「弱さだとか慎重さだとか、勇気だとか、自分の中で確認できたことは多かった。探検部を振り返る時に、この時間は欠かせない」とする。
 私自身は、チュルー遠征を思い起こすと、なんだか少し幸せな気分になってしまう。それは過去を美化していたり、仕事に追われて当時の悔しさをごまかしていたりしているのだろう。それでもやっぱり、あの雄大な山並みと、隊員たちとのおかしな生活を思い浮かべるにつれ、「とても愉快な時間だったのだなあ」との実感が募るばかりだ。
                                               (1999年記)
『EXPEDITION W-1988〜1998-』(2000年11月)より転載


■メラ・ピーク1991(三浦 研)


 もともとこの計画は1990年の春頃、田村康一、吉見敦司、三浦研により、海外の未踏峰の登頂を目的とし準備が進められていた。資料収集もかなり進み、パキスタンの未踏峰でいくつか候補があがり、目的の山も絞られてくるころになると、さまざまな問題が明らかになってきた。
 技術力・資金・パーミッションの間題など1年弱と短い準備期間ではあきらめざるを得なくなってしまった。そして小森、立木をメンバーに加え未踏峰でなくても良いので、全員での登頂を目標としパーミッションの問題もない、ネパールのトレッキングパーミッションで登れる18座の中でも最高峰のメラ・ピークを目標の山に決定した。
 今回の海外速征は国内登山の延長で海外の山を登るというのが基本にあったので、 あまりお金をかけないようにし、準備段階ではアイランドピーク・天山トムール峰などの資料、食糧、装備などを十分に活用させていただき、費用の削減に努めた。準備合宿では、メラ・ピークは技術力というよりはむしろ体力勝負の山なので、 普段の山行に加え富士山で訓線合宿を計3回行ったが、いずれも山頂までは行けなかった。

*以下は行動記録より抜粋。

■そして出発(日本→バンコク→デリー→カトマンズ→ルクラ)

【1日目】2/20(水)
 先発隊(田村、三浦、立木)出発。深夜バンコク到着。 .
【2日目】2/21(木)
 カトマンズ行きのチケットをもとめカオサンロードの代理店を回るが安いところはどこも満席であった。あせった我々は何故かインドのデリー経由でネパール入りすることにし、デリー 行きのチケットを購入。夜、「帝王」田村に連れられパッポンへ行きボラれる。
【4日目】2/23(土)
 後発隊(吉見、小森)バンコク到着。吉見は荷物の重量を減らすために気温30℃のドンムアン空港にプラブーツで登場。
【7日目】2/26(火)
 インド入国のためのビザを取得し、 先発隊は1日早くインドのデリーへ到着。
【8日目】2/27(水)
 後発隊もデリー到着。しかし、先発隊とはめぐり合えず別行動となる。
【9日目】2/28(木)
 5人そろってデリーからカトマンズへ移動のはずが吉見、 小森は飛行機に乗り遅れ先発隊のみネパール入り。
【10日目】3/1(金)
 前日飛行機に乗り遅れた二人を迎えに、空港へ行くとインドはちょうどホリーだったようで、頭から絵の具をかぶったような悲惨な姿の二人が現れた。とりあえず全員カトマンズに集合した。
【13日目】3/4(月)
 ルクラへ到着。飛行機から見下ろすと、空港周辺に墜落した飛行機の残骸があり恐怖をさそう。ポーターを雇うが雪のために予定の賃金より高い。予定より4日遅れとなったが、大きなトラブルもなくルクラ入りできた。 EPIボンベが飛行機持ちこみできなかったため、 シェルパのダワさんにナムチェ・バザールまで買出しに行ってもらうことになった。

■キャラバン開始 (ルクラ2800m→ザトルワラ4600m→コテ3600m→BCカーレ4900m)

【15日目】3/6(水)
 1日雨と雪のため停滞し出発。一気に4600 mの峠越えの予定だったが雪と過重な荷物のためにポーターの足取りは重く3300 mのチュタンガ泊まりとなる。ポーターは30〜40キロの荷物を背負い我々は軽い荷物だけなのは、ちょっと気が引ける。立木は下痢に苦しむ。
【17日目】3/8(金)
 やっと峠のザトルワラごえとなる。膝までのラッセルもありあまり進まない。 三浦・小森は高山病で体調が惡い。
【18日目】3/9(土)
 せっかく登った峠から3600m地点のコテまで下る。ポーターは食糧が減るにしたがって日に日にスピードが増して行く。田村24歳の誕生日なので雑煮・マツシュポテトを食べる。久々の日本食は本当においしかった。
【19日目】3/10(日)
 ヒンクーコーラの河原歩きが続く。周囲は切り立った無名峰がそびえたちクスムカングル(6367m)が雲間に見え隠れしている。吉見・田村は高山病により不調。
【20日目】3/11(月)
 不調の吉見を残してベースキャンプへ到着。6日間のキャラバンを終える。全体を通してキャラバン中は軽い高山病により下痢や吐き気を訴えたものはいたものの、大きく体調を崩したものは居なかった。
 食事に関しては全てキッチンポーイにまかせていたのだが、ララヌードル・パンケーキ・ご飯・チャパーティのくり返しで炭水化物オンリーの現地食は体調が良ければ問題なかったのかもしれないが、高山病で体調を崩している時には体が受け付けず辛かった。

■アタック開始(BCカーレ4900m→C1・5315m→C2・5400m)

【21日目】3/12(火)
 まだBC入りしていない吉見と腹の調子の悪い立木をのぞく田村・三浦・小森でC1へ荷物デポに向かう。C1は氷河地帯の上の予定だが田村の不調とガスのため氷河手前までしか行けず、3時間半ほど行ったところへ荷物をデポしBCへ引き上げる。吉見は無事BC入り。
【22日目】3/13(水)
 C1予定地メラ・ラへ向かう。前日のデポ地で荷物を回収し氷河地帯の上へあがる。氷河の上は膝上までの深いラッセル続きで体力を消耗する。 C1予定地の手前でガスがでてきて何も見えなくなる。危険なので進むのをあきらめC1建設となる。
【23日目】3/14(木)
 C2予定地の5800m地点へ向けて出発のはずが、歩き始めて1時間ほどしたメラ・ラのあたりで強風による地吹雪で全く前進できなくなる。様子見の為に窪地にテントを張り風が収まったところで出発するが、すぐにガスがでて結局予定地よりかなり下部の5400m地点にC2建設となる。天候がなかなかはっきりせず明日のアタックが心配である。

■アタック(C2→登頂6654m)

【24日目】3/15(金)
 心配していた天気も風はあるが晴れていたのでアタック決行となる。6:40出発。雪はあまり多くないもののクレバスが所々にあり、確かめながらゆっくりと登って行く。緩やかな斜面がひたすら続き登り続ける。山頂直下の急な壁に近いような斜面を登ルート雪の量が増え交代でラッセルをしながら進む。
 いくつかの偽の山頂を過ぎた後13:45山頂へ到達。非常に辛く長く感じられた道のりもこの瞬間に全て報われた気がした。山頂からの眺めは最高で、チョモランマ(8848m)、マカルー(8463m)、カンチェンジュンガ(8586m)などが見渡せる。山頂は風が強く、小森のザックが強風により飛ばされるなどがあり、 15分ほど過した後16:00下山を開始する。
 下山は雪壁の左にでるルートがとられたが(登りは右ルート)途中で急斜面に出くわし確保を取りながら下る。17:30雪壁直下に到達。ゆるやかな下りを30分ほど歩いた後、先頭を歩いていた三浦がクレバスに落ちる。落ちた三浦の意識はあるもののかなり強く全身を打つており、自力での脱出は無理とのことで、吉見が懸垂下降でクレバスに下りることになる。三浦の落ちたところは運よく、クレバスが開口部から25mくらいのところで止まっており、そこにツェルトを張りビバークして救出を待つことにする。
 19:30田村、立木、小森はその場での2人の引き上げをあきらめ、一旦C2へ下りシュラフなどを持ってもう一度届けにくることにしたが、暗簡の中でのヘッドランプをつけての行動となったため再度遭難地点まで戻るのは危険だと判断し、22:00 C2到着後明日の行動に備えることとする。

■救出活動

【25日目】3/16(土)
 一旦3人でC1のデポ品を回収し、そこから田村はBCへ下ってダワさんに連絡をとり、救援依頼を行う。必要な装備をそろえ、ダワさんとポーター2名を連れてC2まで上がり、立木、小森の報告を待つ。
 立木、小森はC1からアイスバイル、アイスハーケン等を回収し、C2からシュラフ、食糧などを持って遭難現場へ向かう。13:20到着。シュラフ、食糧などを下ろすが、アイスバイル、アイスハーケンは自力脱出無理との声により、下ろすのはやめて明日の引き上げに期待をかける。14:30下山開始、16:00C2到着。
【26日目】3/17(日
 6:50田村、立木、小森、ダワさん、ポーター2人で救出へ向かう。速いペースで9:30現場到着。2本のザイルを使い、1本をフィックスにしてプルージック用にし、もう1本で引き上げを行う。引上げ作業は順調に進み10:30無事2人とも引き上げに成功する。
 歩けない三浦をシュラフにいれてツェルトでくるみ、ザイルで巻いて引いて下ろすことにする。11:30出発。少々の段差でも三浦は悲痛な叫び声をあげ苦しそうだ。
 14:00 C2着。協議の結果、三浦の歩いての下山は無理と判断。C2に田村とともに待機し、ヘリコプターでカトマンズまで運ぶことにする。立木、小森は今日中にBCへ下り、水と食糧をもって明日C2へ届けることになった。ダワさんは明日から一足先にルクラへ戻り、救助用ヘリの手続きを行うことになる。
【27日目】3/18(月)
 立木、小森は水と食糧をもってC2へ上がる。荷揚げされたものはEPIガスボンベの大サイズ(約半分残)、水1リットル、お茶数リットル、食糧。三浦は昨日よりは元気そうだ。吉見を加え、11:00下山開始。
 12;30 BCへ到着。帰路キャラバンを開始し、ターナまで下る。ターナで日本人パーティとすれ違う。

■帰路キャラバン(吉見、立木、小森)/C2停滞(田村、三浦)

【28日目】3/19(火)
 キャラバン隊、ターナを出発しコテにて昼食をとり沢沿いの大岩まで行き行動終了。
 C2隊、何もできないので1日中寝て過す。
【29日目】3/20(水)
 キャラバン隊、雪は行きより少なく早いペースで進む。 ザトルワラを越えチュタンガまで下る。地酒とジャガイモの差し入れの登場で豪華な夕食をとる。明日はルクラだ。
 C2隊、うまく行けば今日ヘリが来るはずだがこない。昼過ぎにテントの外で人の声がするので見ると、コスモトレックの5人組の日本人バーティーらしく、帰りに燃料と食糧の余りを分けてくれるとのこと。
【30日目】3/21(木)
 キャラバン隊、ルクラ着。 ヘリの手続きのためカトマンズへ飛ぶことになるが、飛行機の席がダワさんの人力で3人分確保できたため全員カトマンズへ。ヘリは明日、6時にカトマンズから飛ぶことになる。46万円かかるという。
 C2隊、今日は快晴で風もほとんどないがヘリはこない。燃料残りわずか。三浦自力で何とか歩けるようになる。

■カトマンズ(吉見、立木、小森) C2→ターナ→カトマンズ(田村、三浦)

【31日目】3/22 (金)
 カトマンズ隊、予定通り6時に空港へ行くがヘリは飛ばない。 ヘリのC2までの飛行は不可能のようで、一旦ディカルカまで吉見をヘリで運び、C2からBCへ三浦を下ろしてから、26日に再度ヘリで迎えに飛ぶことにする。しかし、明日もヘリは飛ばないそうだ。
 C2隊、朝から雲が多い。日本人パーティが下って行く。EPIガス小、行動食などの食糧を分けてもらう。本当にありがたい。昼過ぎには雪が降り始める。
【32日目】3/23(土)
 カトマンズ隊、明日5時にヘリは飛ぶ予定になった。
 C2隊、昨晩からの強い風が吹き続ける。今日で6日目になるが食糧、水が残り少なく、精神的にもかなり厳しい状態である。14:00頃メラ・ラ方面から人影が見える。ダワさんとシェルパ2人である。驚いたことに彼らはルクラから24時間ぶっ続けであるいてここまで来たようだ。しかも直径10cmくらいで長さ3mくらいの丸太を担いでいる。
 三浦が歩けなかった場合は、この丸太に縛り付けて下るつもりだったようだ。三浦はシェルパに支えられ何とかディカルカの岩小屋まで下ることができた。25日にヘリがターナに来る予定らしい。
【33日目】3/24(日)
 カトマンズ隊、雷雨の降る中空港へ行くが今日もヘリは飛ばない。今日で8日間なんの連絡もなくC2の2人は待っているのかと思うと不安である。
 C2隊、昨晩は激しい雷と雪で晩に雪が30cmくらい積もっている。雪の中ターナまで下り、小屋の中にツェルトを張る。歩いてルクラまで帰るダワさん、シェルパたちと分れる。
【34日目】3/25(月)
 カトマンズ隊、今日はヘリが飛んだが雪のためターナまでしか行けないらしい。しかし、ターナに着くと田村、三浦が下山していた。ダワさんの活躍のおかげで、2回飛ぶ予定のヘリが1回で済み、なかなかラッキーな展開となった。
 C2隊、6時に準備を終えひたすら待ち続けるが7、8、9、10時とまたしても時間が過ぎ去って行く。半ばあきらめかけた10:30頃、ヘリの音が聞こえる。また聞き違いかもしれないのでゆっくりと待つと本当にヘリが現れた。何故かヘリには吉見が乗っていた。
 ルクラで給油した後、カトマンズ到着。 三浦の病院での診断結果は軽度の腰椎圧迫骨折という事であった。
【35日目】3/26(火)
 救助のヘリコプター代を除いて、コスモトレックとの精算を行う。何とかお金は足りたが、もともと所持金の少なかった小森、三浦は破産寸前になる。
【36日日】3/27(水)
 本日で解散となるのでカトマンズ・タメル地区の「古都」という日本料理店で打ち上げを行い、長かった登山活動を終え解散する。

■速征を終えて

 今回の遠征はネパールでの登山経験がある田村がメンバーにいたこともあり、あまり戸惑うこともなくスムースに進められた。インドへの寄り道により若干予定よりおそくなってしまったが・・・。
 しかし、長いキャラバンの貧相な食事、高山病による吐き気や下痢など幸かったことは、全員で登頂を果たしたことにより全て良い思い出になった。山頂では自然と目に涙があふれてきた。
 私のクレバス転落により他の隊員には迷惑をかけてしまったが、クレバスの途中で止まったこと、全く外傷がなかったこと、救援のヘリが2回のところがたまたま1回ですんだことなど本当に運が良かった。結果良ければ全て良しではないが、目的を果たし成功の遠征だったと思う。
 登山だけでなく、タイ、インド、ネパールの旅を通じて様々な人や文化に出遭ったことは非常に良い経験になった。

□期間:1991年2月19日〜3月27日
□山域:ネパール・ヒマラヤ ヒンクー谷 メラ・ピーク(6654m)
□目的:メラ・ピーク北西稜からの登頂
□隊員:隊長・渉外・会計 吉見敦司(文理学部2年)
    副隊長・装備   三浦 研(文理学部2年)
    医療・記録    立木大造(文理学部1年)
    食糧       小森啓志(文理学部1年)
    写真       田村康一(1990年卒OB)
                                                (1999年記)
『EXPEDITION W-1988〜1998-』(2000年11月)より転載


■アイランド・ピーク登頂記(高梨 洋之)


1.アイランド・ピーク(6189m)登頂記

 午前9時30分、いよいよ最後の難関である約100メートルの氷壁が目の前に立ちはだかった。すでにシェルパのアン・フリとドルチェはルート工作をはじめており、彼らのフィックスしたロープにユマール (登降器)をセットして登ることにした。しかしこの前の段階で我々二人は消耗し尽くしていた。とくに田村は、べースキャンプ到着以来の食欲不振により、衰弱が激しかった。そして標高差約1000メートルをかなりのハイペースで登ったために、彼はオールアウトという感じで、「もうこれ以上、技術のいる氷壁登攀はできない」と息も絶え絶えに話しかけてきた。自分も氷壁にとりつこうとしたものの、疲労と高度障害のために断念し、頂上へ行くのをあきらめてしまった。

 しばらく休憩したあと、田村が急に「俺はもう登れないが、もし行けるのなら高梨だけでも頂上へ行ってくれ」と言った。その一言が「だめでもともと。やれるところまでやってやろう」との思いを誘いだした。一度は断念した氷壁に再度アタックすると、意外にもなんとかとりつくことができた。難しいのは最初だけで、それ以降はすんなりと登ることができた。
 しかし振り返ると、はるか下に田村の赤いヘルメットが見え、思わす足が震えた。そしてもう引き返すことができないと言う思いが自分をどんどん上に登らせた。いつの間にか、かなり先行していたドルチェとフィリップ (BCから同行したオーストラリア人) に追いついた。

 フィックス・ロープ2ピッチが終わると、先頭でルート工作をしていたアン・フリがにっこり笑って、 「あと少し」と呼びかけてくれた。しかし、高山病の頭痛は次第に強まり、本当に 精神力だけで登っている感じであった。その精神力も頭痛に負けそうになり、「もうここで引き返そう」と何度も思った。しかし、稜線と青々とした空が近づくにつれて、「ここまで来たのだからもう少し頑張ろう」と歯を食いしばり、はいつくばるようにして登った。
 水がオーバーハングしているところでは、フィリップとドルチェに助けられて越えることができ、 彼らに感謝した。

 苦闘の末、やっと氷壁が終わり、稜線にでると先頭でルート工作をしていたアン・フリが握手を求めてきた。頭がふらふらになりながらも、彼の手をぎゅっと握りしめた。10分ほど稜線を歩くと、 先頭のアン・フリが、「先に行け」と手を前にふった。そしていよいよ、アイランド・ビークの山頂に立った。時計を見ると午前11時17分であった。

 登場と同時に、頭痛のためか、それとも緊張の糸が切れたためか、仰向けに倒れてしまった。しかし、登頂のうれしさと開放感は、頭痛を吹き飛ばしてくれるものだった。ローツェ(8516m)とヌプツェが巨大な山容で我々を威圧しているものの、近くにこれ以上の高みはなく、本当に山頂に立ったのだと初めて実感した。ここからは様々な山々がその頂をのぞかせている。ドルチェとアン・フリがいろいろと山の名前を教えてくれるが、高山病の頭ではまるで理解することができない。頭上ではひときわ大きなカラスが風をつかまえて空中に停止し、突然の訪問者たちを眺めていた。
 カトマンズで買ったネパール国旗を広げて記念撮影をしたが、強風のため思うように広がらず苦労した。12時少し前、下山を開始。30分も山頂にいたのだが、わずか5〜6分の出来事のようであった。

2.カトマンズにて

 カトマンズはネパールの首都であるにもかかわらず、高層ビルなどはない。大通りを少しそれれば、そこはでこぼこのじゃり道である。しかし私は、こののどかな町が好きであった。通の両側には露天が品物を広げており、通るたびに呼びかけてくる。バザールはいつも活気に満ち、店の前にはセーター、絨毯、野菜などが所せましと並べられている。それらを見ているだけでも飽きることはない。
 移動も自転車で十分であり、それだけ町も狭くごみごみしている。こののどかな、なにか時間の進み方が妙に遅いのがカトマンズの印象である。

3.キャラバン

 私は今回の遠征で何度かつらい目にあったが、ジリからのキャラバンの途中で襲われた腹痛ほどつらいものはなかった。原因は不明であるが、猛烈な下痢と吐き気は本当にこの世の地獄であった。
 詳細を記すことは避けるが、それがピークに達したシバラヤという村では、夜中に6回も吐き気のために起き、嘔吐の際の「グエーッ」という音がむなしく暗闇の中に響き渡り、村人の恐怖と脅威となって、日本人の品位を大きく貶めた。

4.ドイツ人と日本人

 ドイツ人は一般に山が好きな人が多いらしく、キャラバン中にも良く出会った。日本人の山好きは有名であるが、ドイツ人にもそれは言えるようだ。ガイドやポーターに対する態度も、英米人とは少々異なっている。英米人の多くはガイドやポーターを奴隷のように扱うが、ドイツ人は彼らに対してそれなりに気を遣う。これは日本人の態度によく似ている。
 ドイツ人と日本人の類似した国民性はよく言われることであるが、ヒマラヤというところでそれを改めて感じさせられたのも少し不思議な気がした。

5.ドルチェ・シェルパのこと

 ドルチェ・シェルバは、我々と行動を共にしたマウンテンガイドであり、とても優秀な山男だった。 一見つっぱりヤンキー兄ちゃん風であるが、ささいなことにもよく気がつく、なかなかまめな男であった。ただ彼には二つの欠点があった。
 その一つが無類の酒好きである。彼は夕食のあと、 いつも晩酌としてチャン(濁り酒)やロキシー(焼酎)を飲んだ。キャラバン中は一度も晩酌を忘れることはなかった。そして日中行動していても、ときおりバッティ(茶屋)で酒を飲んでは赤い顔をして歩いていた。
 もう一つの欠点は女ぐせが悪いことだった。彼はなかなかの男前であり、そろそろ結婚してもよい年頃なのだが、ポーターの女の子をからかったり、村の若い女に手を出したり、トレッキング中の日本人女子大生を口説いたりしていた。
 そんな彼だったが、山が近づくにつれて真剣な顔になり、いよいよアタックというときには本当に素晴らしいガイドぶりを発揮した。我々のアタックが成功したのも、彼のおかげといっても過言でない。彼とコックのハクシーには本当に感謝している。 
                                               (1989年記)
『ネパール・ヒマラヤ探検報告書』(1989年12月)より転載

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