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天山山脈・パミール高原Tianshan&Pamir


■パミール高原

○○○○○○○○イメージ 1994年6月1日〜7月5日:
ムスターグ・アタ峰(7546m)遠征


隊 員:吉田宣明、吉見敦司、田村康一、
    中里雄一(亜細亜大山岳部)
報告書:『'94・天山山脈トムール峰登山隊報告書』
概 要:トムールを短期速攻で登るため、事前の高
    所訓練として行った遠征。
    吉田隊長のほか、吉見、田村、亜細亜大学
    山岳部から中里雄一が参加。
    登頂は吉見1名。他のメンバーは標高6千メ
    ートル程度のキャンプに滞在し、高度順化
    を得る。
備 考:天山登攀倶楽部として現役、OBが参加。


■天山山脈

○○○○○○○○イメージ

1990年7月14日〜8月28日:
天山山脈トムール峰(7435m)遠征


隊 員:西堀秀二、井上誠、吉田宣明、永易量行、片岡実、森下市朗
    (山岳部OB)、堀井昌子(医学部山岳部OG)、宮崎捷二、
    河合武臣、高松康夫(探査会・探検部Ob)、田村康一(山
    岳部・探検部OB)、伊東昌彦、吉見敦司(山岳部・探検部)

報告書:『'90・天山山脈トムール峰登山隊報告書』
    京都大学図書館機構蔵書
    信州大学附属図書館蔵書
報 道:神奈川新聞
概 要:最高到達点6450m。8/11未明、標高5800mのC3がブロック
    雪崩に遭う。C3に滞在していた西堀秀二隊長、井上誠登攀リー
    ダー、伊東昌彦隊員が行方不明となる。吉田宣明捜索隊長のも
    と、地上やヘリコプターからの捜索を行うが、3名を発見で
    きず、登頂も断念。
備 考:横浜市立大学天山踏査の会として現役、OBが参加





○○○○○○○○イメージ

1992年7月22日〜8月5日:第2次天山山脈トムール峰遠征


隊 員:吉田宣明、田村康一、佐藤修史(探検部OB)、吉見敦司、
    稲田俊(山岳部・探検部)、真庭博之(ワンゲルOB)、
    相木美香(BCマネージャー)
報告書:『'92・天山山脈トムール峰登山隊報告書』
    国立民族学博物館(梅棹文庫)蔵書
    京都大学図書館機構蔵書
報 道:神奈川新聞
記 録:山岳年鑑'94
概 要:90年とほぼ同じ位置からの雪崩により、C2(5100m)が隊
    員ごと吹き飛ばされる。C2に滞在していた田村、稲田、真庭
    は軽傷ですんだものの、テントやシュラフ等の装備を失う。後
    日、田村、佐藤、稲田の3名で再アタックを試みるが、降雪が
    続き断念。最高到達地点5800m。
備 考:天山登攀倶楽部として現役、OBが参加







○○○○○○○○イメージ1994年7月6日〜8月27日:第3次天山山脈トムール峰遠征

隊 員:吉田宣明、田村康一、吉見敦司、中里雄一(亜細亜大山岳部)
報告書:『'94・天山山脈トムール峰登山隊報告書』
    国立民族学博物館(梅棹文庫)蔵書
報 道:神奈川新聞
概 要:高温による氷河の融解で、BCまでのキャラバンに予定の3倍
    の日数がかかる。吉田の体調不良、田村のケガ等の要因もあっ
    て、吉見と中里の2人によるアタックとなる。
    登山期間中、続いた降雪により、核心部雪壁の状態が悪く登頂
    断念。最高到達地点5400m。
備 考:天山登攀倶楽部として現役、OBが参加



■中国全図




■ムスターグ・アタ登頂記(吉見 敦司)


 興奮からか、目がさえてほとんど眠れず、起床予定の6時が待ちきれず外に出ると、満天の星空!胡さんも起きていたようで、「天気好好!!」と喜び合いながら出発の準備をする。8:25、ビバーク用具一式を持って出発。かなり気温が低く、風も強いので非常に寒い。雪面も固くてスキーが使えず、ツボ足で進む。9:30頃、陽が当たるようになってもなお寒い。マイナス20℃を下回っているだろう。C2で、「オーバーズボンなんかいらねえべ」なんてあなどって、カッパにしたのが間違いだった。下半身が寒くてしょうがない。自分のアバウトさを呪わずにいられない。

 11:30、6300m着。ようやくスキーが使えるようになる。この頃から胡さんが遅れはじめ、その差は開く一方で、6400mで一時間以上待つ。6550mで再び待つが、いっこうに姿が見えないので、先に行かせてもらう。目の前にはドーム状のピークが見えるが、残りの高低差からして頂上とは考えられない。しかし、高度計が壊れたかもしれん、あれが頂上に違いない、などど考えてみる。そうでもしないとだるくてやってられないほど、単調な斜面が続く。17:30、そのピークの上に立つと、上部にははるかに雪原が続いていた。

 18:00、6700m着。ここから、ふたつの尾根が合流する地点にピークが見えた。もしそれが頂上でなくても、そう遠くないだろう、空身なら1時間半〜2時間で到達できそうだと考え、天候悪化の兆しも見えないので、トランシーバーとカメラだけ持ってアタックを続行する。目指すピーク下には18:50に着いたが、さらにその奥になだらかなピークが見え、今度こそは頂上であろうピークをひたすら目指す。

 19:30、まだ着かない。20:00、まだ着かない。20時を過ぎたら引き返そうと思っていたが、あと20分もあれば着きそうなのでそのまま歩き続ける。頂上直下はクラストしており、滑らないように下ばかり見て歩いていたのだが、ふと我にかえって上を向くと、そこはすでに頂上だった。高度計7050m。頂上は広い台地で、鋭い岩峰が最高地点のようだったが、そこまで行く時間がなく、写真を撮ってすぐに下山にかかる。帰りはスキーで快適に滑る予定だったが、スキー技術が未熟な私(ゲレンデ経験2回のみ)は、数百回はこけることが予想され、結局ツボ足で下る。
 
 21:30、6600mで、先に下ったと思っていた胡さんが私を待っていた。一緒に下るために待っていたのかとおもいきや、「ここでビバークしよう」と言う。いくら物好きの私でも、こんな寒いところで寝る気にはなれない。「オレは下半身カッパなんだぞ、一緒に下りよう」と説得するが、胡さんはどうしてもここで泊まって、明日頂上を狙うと言い、その気迫には並々ならぬものがあったので、私はC3に戻ると言って、ツェルト、コンロなどのビバーク用具を渡して、22:00、一人でC3へ下山を急ぐ。

 はじめは胡さんに缶メタを渡したのだが、「不明白、ガス!ガス!!」と言うのでビバークを優先し、EPIを渡す。しかし、これでC3にはコンロがなくなった。帰ってもメシが食えない。ああ!

 下りとはいえ、疲れた体にツボ足のラッセルはきつい。陽が沈むまでには帰れるだろうと思っていたが、表面だけ固い最悪のラッセルではかどらず、ヘッテンで足元を照らしながら、24:30、ようやくC3着。しかし、C3にはコンロは没有、缶メタでカップ一杯の水を30分かけてお茶にし、それを飲んでシュラフに入ったのは、1:30だった。

『'94・天山山脈トムール峰登山隊報告書』(1996年6月)より転載


■トムール峰登頂断念(吉見 敦司)


 8月10日、前日の偵察で好感触を得ていた私は、この日に賭けていた。残された時間はあとわずかだ。そろそろ稜線に抜けなければならない。今年のトムールは好天が続かないことを考えると、この日が実質的なタイム・リミットといえた。その夜の眠りは浅く、何度か目が覚めた。

 朝、外は星がきらめいている。雪壁にもガスはない。ABCで雲ひとつない朝を迎えるのは初めてだ。やった!この瞬間をどれだけ待ったことか。気持ちの高揚を感じながら、出発の準備にかかる。朝食は、大事に取っておいたちらし寿司だ。だが、中里の調子がおかしい。頭痛と吐き気がして食えないという。その表情が、前日、不安げに雪壁を見つめていた顔と重なり合う。その日の快晴は、珍しく日中ずっと続いた。まだ時間はある。もう1日晴れてくれたら、という思いをよそに、寝支度を始める頃から強い雪が降り始めた。
 
 朝になっても、テントを叩く音が止んでいない。降り積もった雪がテントを圧している。外の様子を確認しなければと、固く結ばれたテントの入口を解きながら、分かりきった結果を想像して、絶望感に襲われる。

 外の積雪は40cm以上。3回のトムール遠征でこんなに積もったのは初めてだった。雪崩の巣窟の雪壁に40cmの雪。おまえらもう終わり!とっとと帰れ!そう宣告されたに等しい。昨日稜線に抜けていたら、と思わずにはいられない。なぜこうもめぐりあわせが悪いのか?遭難した3人が、こんなやばいところには来るな、と言っているのだろうか。

 だが、まだ終わりたくなかった。アタック期間中すべて好天という条件なら、13日まで待てる。それまでに雪壁の雪が落ち着いていてくれたら...。ゼロに近い可能性でも捨てられない。ABCにくぎづけにされたまま、まだ何もしていないのだ。だめだとわかっていても、無駄な努力がしたかった。

 13日、頂上に行けるだけの装備と食糧を持って、雪壁に向かう。荷の重さがむなしさをあおる。陽が出ると、雪壁も周りの山も紅く輝きだす。国境稜線が見える。あそこから見おろす景色はどんなにすばらしいだろう。

 昨日の到達地点に着く。思えば昨日、基部までのつもりが、気がついたらがむしゃらにラッセルしていて、こんなところまで来ていたのだった。同じ場所で、同じ作業を、ほとんど儀式のようにすませ、BCにアタック断念を伝える。危険を犯してもいいから登りたいという思いが、私をしばらくその場にとどまらせた。稜線はすぐそこに見えるのだ。このまま登り続ければ、午前中には抜けられそうだった。

 大量のABCの荷を無理やりザックに押し込み、雪壁に向かって手を合わせ、ABCを後にする。何度も振り返って雪壁を見上げる。今度来るときは登らせてくれ、と念じながら。

『'94・天山山脈トムール峰登山隊報告書』(1996年6月)より転載


■雪崩!(田村 康一)


 C2に到着したころはまだ陽がたかく、ムシ風呂状態のテントを嫌った稲田と真庭は、雪上にツェルトをはって陽よけをつくり、すずんでいた。わたしは一人、テントのなかであつさをこらえて横になっていた。C2のテントは、稜線への突破をスピーディにはかるため、一昨年にくらべて二百メートルほど上部にある雪壁基部の雪原に設置してあった。下のほうでは、あいかわらず雪崩や落石の音がひびいていたが、めざす雪壁の状態は安定しており、ここ数日間は降雪もなかった。わたしは、テントのなかで、いつしかうとうとしはじめた。

 突然、稲田の発した「雪崩!」という声にねむりからさめ、テントをとびだすと、雪壁上部、ちょうど一昨年の遭難現場のあたりから、轟音とともに雪崩が落下してくる光景がとびこんできた。高所特有のすいこまれるような藍色の空に、真っ白い雪崩のコントラストが目にやきつく。つぎの瞬間、「にげろ!」とさけんだわたしは、雪壁と反対側の斜面にむかって、一目散にかけだしていた。

 はしりだしてから、ツェルトで寝ていた真庭のことが気になり、うしろをふりむくと、雪崩がさらに勢力をまし、加速度をつけてこちらにせまってくるのがみえる。真庭の姿はすでになく、にげだしているのだろうと解釈してまたはしる。

 「ドーン」という音にもう一度ふりかえると、雪崩は雪壁の基部に猛烈ないきおいでたたきつけられ、数百メートルはまいあがった雪煙がさらにわれわれにせまる。「もうだめだ」と観念したとたん、すさまじい爆風にまかれて視界がきえ、無数のブロックの破片が体にぶつかってくる。ふきとばされないように足をふんばって必死にこらえるが、呼吸ができなくなり、意識がとおざかる。

 それから1分、2分も経過しただろうか、次第に風がよわまり、視界がひらけてきた。なんとかたすかったかもしれない。前方をみると、十メートルほど先に稲田がうつぶせになってたおれ、真庭はさらにその先のちいさな穴に頭をつっこんでいた。稲田がむっくりとおきあがり、意味不明の奇声を発した。真庭は放心状態で、肩でおおきく息をしている。

 ふりかえるとC2はあとかたもなくなくなっており、雪原には無数のブロックが散乱していた。われわれはテントから百メートル以上ははしったようだ。雪壁には雪崩の通過したあとが生々しくのこり、雪崩の起点とおもわれる地点の雪壁は、おおきくえぐりとられて岩肌が露出していた。どうやら、一昨年とおなじく、好天による気温の上昇によって、雪壁が崩壊してブロック雪崩をおこしたらしい。

 わたしはテントから裸足にTシャツでかけだしたために、ブロックの破片がぶつかった手足から出血していたが、他の2人はテントシューズをはいており、たいした怪我はなかった。

 稲田と真庭は、雪原上を犬のようにさがしまわり、登山靴や登攀具など、比較的おもく、とおくにとばされなかったものをほりだしてきた。わたしの靴もみつかり、とりあえず凍傷はまぬがれた。しかし、テントは回収不能な数百メートル先の斜面にひっかかっており、シュラフ、ヤッケ、マットなどは、どこまでとばされたのかわからない状態だった。

 われわれは、のこった装備をC2にデポし、体制をたてなおすために、一旦C1へくだった。

『'92・天山山脈トムール峰登山隊報告書』(1993年3月)より転載


■クライマーになれなかった男(稲田 俊)


 再びトムールに行く、という話は一年生だったころから部の話題に時折上がっていた。俺は行かないだろうなぁ、と話が出るそのたびそのたびに思った。行きたくない、と言う積極的な否定ではなく、俺という人間が行く訳がない、という第三者のような、むしろ第四者とでも言おうか、冷ややかな方の俺が断定した結論におかしいほどすんなりと従っていた。興味がなかった。

 山に行く、ということがどういうものかも知らなかったという方が合っていたかもしれない。まともな山登りをしたこともなかった。一度だけ、春の北穂高を登ったことはあった。山頂から見た、まだ雪を帯びている山々の姿は今までに見たことのない光景であった。そのときは素直に、きれいだなと思い、再び見たいと思い起こすこともあるだろうと思った。

 一年の夏が過ぎ、秋が来てトムールの話は本格的に進み始めていた。別段、その冬は個人としてやりたいこともなかったので、同期の穂積と取り敢えずトムール峰の合宿には参加することになった。トムール峰のミーティングに顔を出すようになってから、次第にその歯車に組み込まれ、回転していくようになった。色々なことを考えた末、そのようになったと思うが、その過程で考えた色々なことというのがよく思い出せない。でも、7,000mから見た景色はさぞかし素晴らしいだろうとは思った。
 
 隊員となってから、ミーティングや係の仕事の事務処理をしている間は楽しみを感じた。しかし、訓練合宿はというとそうでもなかった。山行が楽しくないという訳でもなかった。白馬主稜や、谷川岳など今までとは違った山のおもしろさを知った山行もあった。しかし、それにあたって心が弾むような感触をもったこともなかった。このころから、山に行く、と言う行為の定義のようなものが何か一般の人とは異なっているように感じてきた。

 山に行くと決める。はい、OKです。山頂を極めたいか。極めたいと言えば極めたいです。それにこしたことはありません。山歩きはつまらないか。いいえ。楽しいことはないですが、これはこれで楽しむこともできそうだと思います。今日は天候が悪いが日程上停滞できない。かと言って行動できないほどではないので行くぞ。はぁ、わかりました。

 根性の問題かな、と時たま思うが本人はちょっと違うと思っていた。山には山でしか知ることのできないものがあり、トムールにはトムールでしか知ることができないことがある、と大義名分を掲げたまま日本を出た。

 山に入ってからは、そんな事はどこかに吹っ飛んだ。初めて見る氷河と日本でしていた想像よりも遙かにスケールの大きな山々の中で、その迫力に圧倒されながらただ黙々と行動していた。そして雪崩が起こった。

 雪崩の後、再挑戦を希望したのは見栄であると言ってもよい。その見栄とは隊の人、気持ちよく送り出してくれた知人、親、そしてトムールに対する見栄である。見栄で命を懸けたため、実際雪壁の前に立ってから恐ろしさが込み上げてきた。前言撤回、と言えるものなら言いたかった。アタック隊の士気を低下させる訳にもいかなかったし、何より自分の心の中に少しでもある山頂への熱情を消さないためにも、黙っていた。内心は怖くて怖くてたまらなかった。開き直っても開き直っても恐ろしかった。結局、怖いという感情しか浮かばなかった自分に正直さと哀れさを感じた。

 日本に帰ってきてから、本で見るような一流のクライマーと呼ばれる人々に限らず、休日を惜しむことなく山に費やしている人々を見るのが辛い。彼らのその厳格さ、ストイシズムを神々しく感じる時さえある。別に彼らは俺に目を向けている訳ではないのに、彼らの目が俺を、甘い、と言って笑っているような気がする。お前は山にくるな、と無言で怒鳴っているような気がする。

 未だ俺には、それを乗り越えてから生じるストイシズムのようなものは生まれてこない。

『'92・天山山脈トムール峰登山隊報告書』(1993年3月)より転載


■一枚のハガキ(佐藤 修史)


 「氷河の真っ只中にいます。雄大で、日本の山には登れない身体になっちゃいそうです」。
 以上はあの最後の夏、中国で伊東が私に宛てたハガキの書き出し部分である。このハガキは伊東の遺留品の中から発見され、したがって日中両国の郵便局を煩わすことなく、登山隊員の手から伊東の家族へ届けられた。
 私がハガキをいただいたのは、宛名がこの私だったからだが、そのようなハガキの存在を知り、実際に手にとって読んだのは、その年の10月10日、伊東の葬式の日であった。

 天山を、氷河というものを知らなかった私は、「雄大」な氷山群とその銀世界の「真っ只中に」いてニッコリほほ笑む伊東を懸命に想像してみたものだ。ところが、頭に浮かべるその素敵な画像は一瞬にして、これまた想像するしかない雪崩の場面に移行してしまう。私はハガキを読み返す度に、こんな想像を繰り返し、いつも悲しくなっていた。
 
 伊東にとっての最後の夏から二年、すなわち1992年の夏、私は天山の「氷河の真っ只中に」いた。「雄大で」まぶし過ぎる白い景観をサングラス越しに見渡しながら思う――。やっぱり二年前に伊東と来るべきだった。

 30分毎に一度と言ってもけっして言い過ぎではないくらい頻繁に雪崩が起きる。自分の足元から崩壊することこそなかったが、行く手の右に左に、あるいは後方に轟音とともに滑っていく雪塊を見るのは怖かった。あまりにも頻発するので、周囲の雪崩に慣れきって、まるで他人事のように無関心になっている自分に驚き、その無警戒な行動に身震いすることさえあった。あの雪崩に飲まれたらひとたまりもない。しかし、伊東ら三人は飲まれたのだ。それを想って胸が痛まぬはずはない。

 7435メートルの頂は遠かった。私たちは三人の志を遂げるどころか、前回の最高到達地点にも及ぶことができなかった。私たちの登山を、計画段階で大いに侮辱してくれた人間を見返してやりたい気持ちもあったが、それも水疱と化した。詳しくは触れないが、この山行は、実際の登山そのものにおいても登山準備の面でも種々の問題を残した。不完全燃焼だった。

 だからこそ、三度目の挑戦の声が上がっているのだ。残念ながら私自身はその計画に関与していない。前述の登山に満足はしていないし、したがって伊東にある種の後ろめたさを持っているのも事実だ。三度挑まんとする仲間にも後ろめたさを大いに感じる。三度目のトムール遠征が実現し、そこで万が一の事故(万が一どころではないから尚更だ)が生じたとき、私はどの面を下げて追悼の場に臨めばよいのか、そんな心配さえする。

 それでも私は当分の間、海外登山などしないつもりだ。開き直って言わせてもらえれば、他にやりたいことがあるのだ。ひどく傲慢な言い方をすれば、私は自分のやりたい方法で伊東の分まで精一杯生きるつもりだ。それでいて、次のトムール遠征に挑む仲間に、自分の胸中にわだかまっている「トムール登頂願望」を託したい。様々のしがらみを断ち切って立ち上がろうとしている彼らには、最大限の敬意を表したい気持ちだ。

 天山から帰ってきて、もう一年が過ぎた。したがって伊東との永遠の離別から三年以上たったことになる。前出のハガキは文面がしっかり読めるように部屋に貼られている。天山でいやというほど雪崩を見せつけられた後では、ハガキを読んでも悲しくなることが少なくなった。実際に天山を踏査してみてようやく彼の死を受け入れられるようになったのだろう。しかし、だからといって伊東昌彦の存在を忘却の彼方へ追いやったわけではけっしてない。私は間もなく奈良に引っ越すことになるが、そこでもこのハガキをしっかりとピンでとめるつもりだ。

 私の心の中では伊東は生きている・・・などと書いたら、大袈裟な物言いに苦笑されるかもしれない。笑ってくれても大いに構わないが、私は至極真面目に書いている。だからこそ「伊東君」などと他人行儀な表記をせずに「伊東」と親しみを込めて記しているのである。

『天山に逝く〜追悼・西堀秀二 井上誠 伊東昌彦』(1994)より転載


1990年夏、天山トムール峰(田村 康一)


 1990年7月28日、伊東と私は荷揚げのため、トムール峰のBCからC1に入った。西堀と永易はC2予定地から核心部雪壁の下部を偵察し、暗くなってからC 1におりてきた。下山中、永易はクレバスに落ちたらしい。顔をしかめて右足をひきずっている。テントに戻った西堀は、「雪壁の状態がおもっていたよりもよい。一気にルートを伸ばせそう」と償察の手ごたえと今後の見通しを上機嫌に説明する。雪壁攻略のとっかかりがみえ、テント内は威勢のいい空気につつまれた。

 「こうなったら、後発隊の二人を待たずに我々だけで登ろう」。西堀は天候が安定しているうちに、高度順化のできている先発隊だけで頂上を狙うことを提案した。永易もそれに同調する。私はおどろいた。隊の主力メンバーである山岳部OBの井上と吉田は、一週間遅れの後発隊として出発し、まだBC入りしていない。先発隊には隊長の西堀がいるとはいえ、他の四人は経験不足の若い隊員である。少なくとも私には、井上、吉田のいないパーティで頂上に立てる自信はなかった。なにより、訓練合宿のときからの合言葉だった全員登頂≠ニいう目標を、目標をかかげた当の隊長自身があっさりくつがえそうとしていることに対し、不信感を覚えた。

 「俺だって無理して会社休んで先発できたんだ。遅れてくる奴が悪い。二人は我々が登頂したあとで登ればいいだろ」。異論をとなえる私の耳に、西堀のカン高い声がひびいた。「登山は強い者が頂上に立つ力の世界なんだよ。学生の身分でちゃらちゃら登ってたお前らとは情熱が違うんだ」。計画立案段階からずっと、民主的≠ネ隊のあり方を標榜してきた西堀の豹変ぶりに、私の不信感は次第に怒りへと転じていった。

 翌朝、西堀とともに上部のルート偵察をおこなう予定だった永易が、前日の負傷のため行動不能となった。西堀は永易の代役として私を指名したが、「先発隊だけで登頂する」 という方針に納得のいかない私は同行を拒否し、西堀は私を登出隊から外す決定を下した。

 以上が『90・天山山脈トムール峰登山隊報告書」に記された、西堀と私の「意見がわかれた」際の経緯である。このあと報告書には、BCでの話し合いにより、「西堀が折れる形で田村の帰隊が決まる。・・・もやもやがふっきれ、一同に隊の結東が強まったことを確認した云々」とある。しかし、あれから三年が経過した今もなお、私自身のわだかまりは、ぬぐいさることができないままになっている。

 もともと探検部の人間であり、速征計画がもちあがるまで西堀との面識がなかった私は、山岳部ではなかば伝説と化していた彼のことをよくしらなかった。ただ、「神のような存在」と西堀をしたう井上や吉田から、冬の北嫌や谷川等における数々の逸話をきかされてきたおかげで、 山岳部やJCCでの西堀の姿を漠然と想像していた。

 計画が軌道にのり、諸般の準備活動や山行をともにするようになってからは、 西堀はリーダーとしての才覚を随所に発揮してみせた。隊の編成においては、山岳部、探検部、探査会の三団体からなる寄り合い所帯をまとめ、訓練合宿では20前後も年齢のはなれた若い隊員を、合理的なトレーニングのもとに引っぱっていった。総隊長や事務局長など、何人もの長≠擁する時代がかった速征隊組織のなかで、計画を推進していくうえでの実質的な原動力が西堀だったことは、この隊にかかわった誰もが認めるところであろう。

 ただときおり、非情ともおもえるような厳しさを垣間みせることがあって、 それは意にそわない隊員を容赦なく切ったり、我々が合指中にヘマをしでかしたさいの怒声となって表出した。所属団体や年齢層のちがう隊員をたばねるリーダーとしてのバランス感覚にくわえ、 おそらく山岳部やJCCでの先鋭的な活動のなかから培ってきたであろう非情さと激しいまでの情念を、ときに矛盾をはらみながら同居させていたというのが、一年半のつきあいを通じて私が感じた西堀の人となりであった。

 1990年夏、天山トムール峰。先発隊だけのアタックを主張した西堀は、7435mの山頂を前に激しい闘志と攻撃性をむきだしにした一人のクライマーだった。たぶん西堀は、天候や雪の状態とメンバーの力量をはかったうえで、「先発隊だけで登頂できる」と確信し、「後発隊をまっているあいだにどんどん条件が悪くなって登れなくなる」ことまでを計算に入れていたのではないか。一方私は、登山そのものの失敗よりも、後発隊を切ることによる隊の分裂を、そして今まで築きあげてきた井上、吉田との人間関係の破綻を恐れた。

 今にしておもえば、山に対する思い入れや情熱、経験、技量といった全ての面で西堀の足元にもおよばなかった私には、登山の成否をわける可能性のあった決定的な場面において彼と対時し、建前や原則論をふりかざす資格など、最初からなかったかもしれないのだが・・・。

 結局、西堀はクライマーとしてのエゴイズムを内におしこめ、計画立案以来ずっとそうであったように、リベラルなリーダーとなって消息を絶つまでの采配をふるった。彼がいなくなった今となっては、 その心中をうかがいしることはできないのだが、「ベッドの上で死ぬような平凡な人生はおくりたくない」と常々口にしていた西堀にとっては、遭難≠ノよって自らの歩みをとめてしまったことよりもむしろ、自身の山に対する信念(私はC1での西堀の発言が、彼の信念によるものだとうけとめている)とひきかえに、横浜市立大学天山トムール峰登山隊≠フ隊長を演じ続けた後梅のほうが強かったのではないだろうか。

 今さら仮定の話をしたところでどうなるものでもないのだけれど、もしあのとき、西堀が主張するように先発隊だけで頂上を目指していたとしたら・・・。それが三年前の夏以来ひきずってきた私のわだかまりであり、おそらく西堀も同じおもいをいだいたままトムールの雪のなかに眠っているのだと、私にはおもえてならないのだ。

『天山に逝く〜追悼・西堀秀二 井上誠 伊東昌彦』(1994)より転載


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